丸山浩路「本気で生きよう! なにかが変わる」(大和書房)より「五井先生と太郎」の感動的なしたお話を紹介します。
ある高等学校の入学式が終わった後の出来事でした。
担任の五井先生が静かに一礼した後、
「私はこの1年5組を担当する五井です。今から名簿順に名前を呼び上げます。 呼ばれた人は返事をして手を挙げてください。それでは、トップバッターの青木君」
「ハイ」
「穏やかな返事だね。先生は君の返事が気に入ったよ。青木君、1年間よろしく頼むよ。次は伊藤君・・・」
五井先生はそれぞれの生徒へ簡単なメッセージを伝えながら、一人一人の名前を呼びあげました。
そして「山田太郎」という生徒の順番がきたときでした。
「太郎!」
今まで名字で呼んでいたのが、なぜか突然、名前で呼んだのです。しかも「君」づけなしにです。教室は一瞬ざわめきました。しかし、誰より驚いたのは当の山田太郎です。
「なんだ!? みんなは名字で呼ばれているのに、なんでオレだけが呼び捨てなんだ?」
五井先生はさらに声を張り上げました。
「名前を呼ばれたら返事をして! いないのかっ、太郎っ!」
「ハイ・・・」
「そうか、君が太郎か・・・。太郎っ、ガンバレよ!」
太郎は、名前を呼び捨てにされて、何となく面白くない気持ちでした。
一学期、二学期が過ぎても、五井先生の「太郎呼ばわり」は変わりません。太郎はときどき、反抗して返事をしなかったこともありました。
そして迎えた三学期のある朝、登校してきた太郎にクラスメートが駆け寄ってきました。
五井先生が入院したという。
そこへ古文担当の正田先生が急ぎ足でやってきました。
「山田君。五井先生からの電話でね、『太郎にすぐ病院に来てほしい』ということです」という。
その日の放課後、太郎は病院に向かいました。
太郎は病室に入り、白い衝立の向こうをのぞいたとき、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまいました。
「先生」
病室のベッドには、腕に何本もの管をつけた五井先生が横たわっていました。髪の毛はほとんど抜け落ち、やつれた顔で苦しそうに息をしているその姿は、まるで別人のようでした。
太郎の存在に気づいた五井先生は僅かに目を開けると、うれしそうに微笑み、
「太郎か・・・よく来たな…お前にどうしても話しておきたいことが・・・あって」
そういうと先生は、激しくせき込みました。
「どうして太郎と呼んだのか・・・その理由をどうしても話しておきたくて・・・。お前、小学校六年のとき、文集に書いた作文・・・覚えているか」。
太郎の顔が今までと違って厳しい表情になりました。
六年生の時の文集・・・そこには太郎が父親のことを書いた作文が載っていたのでした。
太郎の両親は共に言語と聴覚に障害があり、聞こえませんでした。話せませんでした。しかし、そのことで太郎が両親に反抗したことはありませんでした。ただ一度を除いて・・・。
ある日の放課後、太郎はクラスメートと大喧嘩になりました。太郎は相手を組み伏せ、馬乗りになって拳を振り上げた瞬間、下敷きになって必死にもがいていた相手がこう叫んだのです。
「やぁい、おめぇんちの父ちゃん、母ちゃん、耳きこえねぇだろう。しゃべれねぇだろう。この前の運動会のとき、おめぇんちの父ちゃん、母ちゃん、変な声出してサルみてぇに手で踊って話してやんの。
おめぇ、一度も名前呼ばれたことねぇんだろう。犬や猫だって名前呼ばれんのによぉ。これからもずっと呼ばれねぇんだぞ。ザマアミロ!」。
太郎は立ち上がり、校門めがけて駆け出しました。今までに感じたことのない寂しさ、言いようのない切なさに襲われながら、ボロボロと涙をこぼし、無我夢中で家に向かいました。
ガラガラガラッ。乱暴に玄関の戸を開けて、父親のいる部屋に駆け込み、ドン、ドン、ドンと足を踏み鳴らしました。机に向かっていた父は、床を伝わってくる振動でやっと後ろを振り向き、太郎の姿に気づきました。
いつもと違う息子の様子に驚いて立ち上がった父親に、太郎はむしゃぶりつきました。そして泣き叫びながら手話を始めたのです。
「ぼくの 名前 呼んで! 親なら 子どもの 名前を 呼ぶのは 当たり前 なんだぞ。
この前 運動会が あったよね。 走ってるとき みんな 転んだだろう 転んだとき みんなは 父さんや 母さんに 名前を 呼ばれて 応援 されたんだぞ! ぼくだって 転んだんだ・・・。 でも ぼくの 名前は 聞こえて こなかったぞ・・・。
父さん、 名前 呼んでよ。 一度で いいから ぼくの 名前 呼んで・・・。名前を 呼べないんなら ぼくなんか ぼくなんか 生まれなければ よかっただよぉ―!」
父親にしがみつき、その体を揺さぶりながら、太郎は声をあげて泣きました。じっと目を閉じていた父親は力いっぱい息子を抱き締め、やがて静かに体を引き離しました。
そして無言の中にも力強い息づかいを感じさせる手話で、太郎に語り始めました。
「私ハ 耳ガ 聞コエナイ コトヲ 恥ズカシイト 思ッテ イナイ。神ガ 与エタ 運命ダ。名前ガ 呼バレナイカラ 寂シイ? 母サンモ 以前 ソウダッタ。
キミガ 生マレタ トキ 私タチハ 本当ニ シアワセダト オモッタ。五体満足デ 声ヲ 出シテ 泣クコトヲ 知ッタトキ 本当ニ ウレシカッタ。 君ハ 体ヲ フルワセテ 泣イテイタ。ナンドモ ナンドモ ヨク泣イタ。
シカシ ソノ泣キ声ハ 私タチニハ 聞コエナカッタ。母サンハ 一度デ イイカラ キミノ 泣キ声ガ 聞キタイト キミノ 唇ニ 聞コエナイ 耳ヲ 押シ当テタ。
(ワガ子ノ 声ガ 聞キタイ! コノ子ノ 声ヲ 聞カセテ!)
ト ナンド 願ッタ コトカ。シカシ 母サンハ 悲シソウナ 顔ヲシテ 首ヲ 左右ニ 振ル ダケダッタ。
私ニハ 聞コエナイガ オソラク 母サンハ 声ヲ アゲテ 泣イテイタト 思ウ」
太郎は初めて父親の顔を見ました。父の心の底からほとばしり出るような手話をまばたきもせずに見つめました。
「デモ 今ハ 違ウ。私モ 母サンモ 耳ノ聞コエナイ 人間トシテ 最高ノ 生キ方ヲシテイコウト 約束シテイル。
キミモ ソウシテ 欲シイ! 耳ノ聞コエナイ 両親カラ 生マレタ 子ドモ トシテソウシテクレ。コレハ 私ト 母サン 二人ノ 願イデス」
このときの父親の言葉を太郎は作文に書きました。実は五井先生の子どもは太郎の小学校
時代の同期生でした。五井先生は子どもが持ち帰った文集を読んでいて、たまたま太郎の作文を目にし、
(耳の聞こえない親子には、こういう葛藤もあるのか・・・)
と深い感慨を覚えたといいます。
それから三年の月日がたち、五井先生は新しく自分が担当するクラスに山田太郎の名前を見つけました。
(山田太郎・・・どこかで聞いたような・・・)
記憶をたぐり寄せるように内申書をめくると「両親ともに言語障害一種二級」と書かれてありました。
(ああ…あのときの作文の子だ…)
「お前の担任になると知ったときから…私は…お前の名前を呼ぶときは…」
つらそうに咳き込みながら、五井先生は振り絞るような声で話しました。
「こんなとき、お前のお父さんだったら…どう呼ぶかな…そう考えながら『太郎、たろうお、タロー!』と呼び続けてきたんだ…理由も話さず…悪かったな…太郎」
頭を激しく振りながら、太郎の口から嗚咽が漏れました。奥歯を力いっぱい食いしばっても、とめどなく涙が頬を伝わってきます。
うつむきながら肩を震わせている太郎のそばで、すっかりやせ細った五井先生は、じっと太郎を見つめながら何度もうなずきました。
「先生、病気なんか早くなおしちまえよ。絶対に治すんだぞ。そして、オレのことずっと太郎と呼んでくれよ。オレのこと、太郎って呼べるのは先生だけなんだ!」
それから四日間、意識不明の状態が続き、五井先生は亡くなられました。しかし、五井先生の限りないやさしさは、今も太郎の心の中に生きています。
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