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2017年11月12日13:31

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近藤俊太郎著『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下―』を読む

近藤俊太郎著『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下―』(法蔵館)を読む。

小谷信千代師の『親鸞の還相回向論』を読んで以来、いわゆる真宗学における�犇畭絛騎忰瓩覆襪發里�どこまで親鸞の教えそのものに�狠藜足瓩覆里�ということが気になって仕方がなかった。

そんななか、中島岳志著『親鸞と日本主義』を読んで、親鸞教学がいかに戦前の天皇制国家体制に、そしてあのアジア太平洋十五年戦争に�狎儷謀�に�瓩�かわっていたかということを知るに至った。

ではそもそも�犇畭絛騎忰瓩箸浪燭�。�犇畭絛騎忰瓩箸論饗�満之とその門下生たちによる親鸞教学の近代化である。ではそこで言われる�犇畭絏臭瓩箸浪燭�という問題ね考えねばならないのであるが、わたしは、中島岳志氏の『親鸞と日本主義』のなかで登場してくる暁烏敏の�倏�狂的な戦争賛美�瓩望�なからず驚きをもった。

暁烏敏の�倏�狂的な戦争賛美�瓩呂匹海�ら来たのだろうか。果たして暁烏敏�犖朕妖�な資質�瓩砲茲襪發里覆里�、それとも暁烏敏が師と仰いだ清沢満之その人の思想のなかにその�犖酸��瓩�あるのではないかと思うに至った。

そういうわたしの問題意識の経緯のなかで、近藤俊太郎氏の『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』という書籍を読むに至った。その近藤俊太郎氏の『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』によれば、結論から言うと、暁烏敏の�倏�狂的な戦争賛美�瓩癲∪饗�満之が説いた「精神主義」に基づく言動であるということになる。

近藤俊太郎氏によれば、清沢満之とその門下たちは、現実の生活のなかで生じる「煩悶憂苦」を解消し、精神的安定を獲得することを課題としていた。したがって信仰の確立は精神的安定の獲得と重ね合わせられたのである。その精神的安定は「絶対無限(者)」(あるいは「他力」「如来」「阿弥陀」等)によってもたらされると考えた一方、現実を頼りにならない相対的なものであり、自己に「煩悶」もたらす磁場なのだと考えた。彼らはそうした現実の相対化を徹底することによって「絶対無限」に接することができると考えたから、現実の相対化を執拗に繰り返した。

さらに彼らは、信仰的主体が「絶対無限」と接するのは自己の精神内においてであると考えた。「精神主義」に特徴的な現実の相対化は、自己と現実状況の関係性を無価値化することであり、信仰を確立するためのいわば前提的作業の一環であった。したがって現実を全面肯定することができないのは信仰の不徹底に起因するのであり、つまり信仰を確立しているのかどうかは、現実の無条件肯定を指標としていたのである。

近藤俊太郎氏の『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』は、明治政府による天皇制国家確立期における宗教政策、神道の�猗鷭ゞ飢臭瓩�ら足尾鉱山事件、日露戦争、大逆事件、天皇の代替わり、そして十五年戦争と、現実世界の出来事と「精神界」つまり清沢満之とその門下たちがどのように関わり、何を「精神界」で書き残しているのかを逐一調べ後付けをしている。その意味で清沢満之の死後、その師与沢満之の思想がその門下生たちにどのように受けつられていったのかを丁寧に論じている。

清沢満之と暁烏敏などの門下生たちの思想の間には相違があると路地る研究者は少なくないが、近藤俊太郎氏は清沢満之とその門下生たちとの思想の間には相違は全くなく、むしろ�狠藜造豊畆�けついていたと論じている。

わたしがこの近藤俊太郎氏の『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』を読んで最も注目したのは、下記の文章である。

「われわれは近代主義者ではなくとも、近代と国家権力のなかに、しかも戦前とは大きく性格を異にしながらも存続する天皇制国家のなかに生きているのであるから、決してそれ(歴史状況=秀司)を軽視すべきではないだろう。克服すべき問題を対象化したことで、自分の立ち位置がその外部に確保されるほどわれわれの生活は単純な構造になっていないのである。」

清沢満之を考えるとき、清沢満之の思想にばかり目が行き、清沢満之が生きた�猯鮖望�況�瓩鯏抒飴襪垢觀舛馬世犬討い覆い世蹐Δ�。このことは現代を生きるわたしたちの�犹犖經儉瓩老茲靴篤韻犬任呂覆い箸靴疹�谷信千代師の言葉と重なってくるのである。

近藤俊太郎著『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』を購入したのは、2013年6月のことであり、あの当時、清沢満之に関する件教書ならば、なんでも買い込んでおこうとして買っておいた書籍の一冊であった。ただ�狹傾沈�国家�瓩箸いΕ織ぅ肇襪�若干気になりながら買ったことを覚えている。今回の引越に際して、清沢満之に関する書籍はすべて残して持ってきた。その効果がこんな形で出てきたのである。

昔、わたしがまだ学生だった頃、本の買い方として、この本は今は読まずともいつか読むようになるだろうという�猴輯境瓩�あれば、その本は買っておくべきだと、恩師・原野栄二先生に習ったことがある。�犧�は読まずとも、いつかは読みたくなる�瓩箸い�考えで、わたしはずいぶん本を買い込んだ。そして今回の引越の際、一度も読まずに古本屋に打った本も随分ある。今、改めて原野先生の言葉の正しさを痛感している。

大谷大学では、清沢満之を�狢萋鵑凌二足瓩噺討岾慇犬眈�なくはなかった。しかし親鸞と清沢満之とは深層的に相違はないのだろうか。そういう観点からももう一度�狄申,砲�ける往生論�瓩鮃佑┐討澆燭い隼廚辰討い襦�
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