初めて潔子が部屋に遊びに来た時、薫兄さんは大いに慌てて、
「潔子ちゃん、この部屋に来るとお母さんに怒られるよ」
と暗に子ども部屋に戻るよう促したが、
「別に何もしてなくてもお母さん怒るし、
母屋のお部屋にいると温ちゃんと須磨ちゃんにいじわるされるから」
と言うと、それ以上何も言わず黙って部屋に入れてくれたが、
誰かに見つかる前になるべく早く母屋に帰そうと、
「僕は学校の宿題があるから、潔子ちゃんとは遊べないよ」
などと言ってみるのだが、
「薫兄さんのお勉強の邪魔はしないよ。御本見てるもん」
と潔子が返すとそれ以上、無理に部屋から追い出そうとはしなかった。
後に祖父の転勤先の金沢で第四高等学校の理科に進む薫兄さんの本棚には、
今まで潔子が見たことのない数学や理科に関する本がたくさん並んでいた。
潔子は学齢前だったが2人の姉が勉強しているのを横目で見ているうちに、
簡単な読み書きはできるようになっていたけれど、
薫兄さんの本棚の本は難しすぎて背表紙の文字を追っても意味が分からなかったが、
なんとか自分でも読めそうな簡単な本を探し出して何冊か読んでいくうちに、
今まで知らなかった数学や理科の世界が好きになった。
後に潔子が三姉妹のうちただ一人理系の大学に進学したのは、
この時に理数系の本に慣れ親しんだからなのかも知れない。
本に飽きると潔子は、机に向かって数学の宿題を解いている薫兄さんの背後から、
その手許を覗き込むが、難しそうな数字の羅列で内容はちんぷんかん。
ただ一つだけ分かったのは、子ども部屋で温子が解いている算術の宿題より、
格段にレベルが高く難しそうだということ。
祖母はよく三姉妹に薫兄さんを「バカだ」と言っていた。
けれど、年齢が全然違うので単純に横並びに決めつけることはできないが、
算術の宿題を解いている温子の手許を覗くと、
「潔ちゃんが邪魔で、気が散って問題が解けない」
と怒るが、薫兄さんは潔子が覗いていても邪魔にせずスイスイ問題を解いていく。
もしかして「バカ」なのは薫兄さんの方ではないのじゃないかしら?
こうして たいら母 潔子は、学齢前にして母である祖母の言動に疑問を持ち始めた。
薫兄さんと潔子は、同じ部屋にいても取り立てて話はしなかった。
年齢の離れた異性の兄妹に共通の話題がなかったからと言うのもあるが、
2人とも母屋でなにか発言しても他の家族には全く取り合って貰えない者同士で、
自然と無口になっていたからだ。
それに、誰かしらがお喋りをしていて五月蠅い母屋より、
この部屋の静寂の方が潔子は好きだった。
祖母は口を開けば気に入らない親族の悪口ばかり。
温子は宿題の邪魔だと潔子を怒る時以外は大人しくて寡黙だが、
須磨子は1日に何回も癇癪を起こして大騒ぎ。
2代目お梅ちゃんはオウムみたいに「奥様に言いつけますよ」しか言わないし、
などと考えていたら、そのお梅ちゃんが潔子を探す声が庭から聞こえてきた。
この部屋にいたのがバレると初代お梅ちゃんのように、
薫兄さんが叱られて大変な目にあって困るので潔子は読みさしの本を本棚に戻し、
「また遊びに来るね、薫兄さん」
と声をかけてから離れの扉を開け、
母屋に続く渡り廊下から庭に飛び降りて、
いかにも庭で遊んでいた風を装って自分を探す声の方へと小走りに駆けて行った。
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