R.ワーグナー: 舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」第3日《神々の黄昏》
ジークフリート: アーノルド・ベズイエン(テノール)
グンター: マルクス・アイヒェ(バリトン)
ハーゲン: アイン・アンガー(バス)
アルベリヒ: トマス・コニエチュニー(バス・バリトン)
ブリュンヒルデ: レベッカ・ティーム(ソプラノ)
グートルーネ: レジーネ・ハングラー(ソプラノ)
ヴァルトラウテ: エリーザベト・クールマン(メゾ・ソプラノ)
第1のノルン: 金子 美香(メゾ・ソプラノ)
第2のノルン: 秋本 悠希(メゾ・ソプラノ)
第3のノルン: 藤谷 佳奈枝(ソプラノ)
ヴォークリンデ: 小川 里美(ソプラノ)
フロースヒルデ: 金子 美香(メゾ・ソプラノ)
ヴェルグンデ: 秋本 悠希(メゾ・ソプラノ)
合唱: 東京オペラシンガーズ
管弦楽: NHK交響楽団
指揮: マレク・ヤノフスキ
2017年4月1日(土),15:00開演,東京文化会館
今回,初めて東京・春・音楽祭のワーグナー・シリーズの上演を観て,面白いほど現在の状況を映し出す上演であることが印象に残った。
このプロダクションの最大の特色は,徹頭徹尾ヤノフスキの「神々の黄昏」であることだ。響の薄い室内楽的な精緻さで仕上げられたワーグナー。そして,完璧なまでに滅菌消毒が施され,人畜無害なワーグナーに成り果ててしまっている。コーヒーに喩えるなら,いわば砂糖とミルクがたっぷり入ったアメリカン・コーヒーのようなワーグナーである。こういう口当たりの良いワーグナーがあってもいいのかも知れないが,妙なワグネリアンが大量発生しても困る。やはり「違いが分かる男」が嗜むような,酸味や苦味に富む大人のコーヒーを提供してほしいものだ。
ヤノフスキが振る「神々の黄昏」の最大の欠陥は,ハーゲンやアルベリヒなどに代表されるダークな要素がほぼ消し去られ,深みや奥行きに乏しい薄っぺらな作品に変容してしまったことだ。その結果「ジークフリートの葬送行進曲」から「ブリュンヒルデの自己犠牲」へかけての壮麗な音楽がもたらすカタルシスの効果が半分以下になってしまう弊害が生じる。それは器用ではあるが,ハリボテに描かれた薄っぺらな絵画でしかない。音楽的な壮大さを演出しようとすればするほど,聴く方は興ざめするばかり。ドストエフスキーの「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」などに通ずる悪の凄味を濾過してしまうと,もはや「神々の黄昏」ではなくなってしまいかねない。「神々の黄昏」いや「ニーベルングの指環」のクライマックスがこの有様では,格好がつかないことはなはだしい。
ところで,ウィーン・フィル(ウィーン国立歌劇場)を引退したキュッヒルがコンサートマスターを務めるN響は,ヤノフスキの要求に対してじつに器用に応えていた。N響を聴くのは久しぶりだが,以前からこれほど小器用だったのだろうか。ヤノフスキの統率力の賜物か,キュッヒルのリーダーシップのせいか,N響が変わったせいなのか。いずれにしても,強いアイデンティティを感じさせないところは変わっていない。
どのプロダクションにもある程度は当てはまることだが,予算の問題やアクシデントで,この壮大で重厚極まりない作品の登場人物を演じきる力量を持つソリストを揃えることが叶わなかった。ジークフリートとブリュンヒルデを歌うはずの出演者は,体調不良のため土壇場で歌えない事態に陥ってしまった。急遽ヨーロッパから代役を呼び寄せたものの,来日が3月29日では時差ボケなどのために満足な状態で歌えないことは火を見るよりも明らかだ。ベズイエン(ジークフリート)は最初から最後までまともに声が出ておらず,ティーム(ブリュンヒルデ)は第3幕でやや復調したものの,それ以前は存在感の薄いブリュンヒルデに終始した。この2人に関しては,たとえ体調が万全だったとしても,感銘を与えるようなジークフリートやブリュンヒルデだったか否かは疑問が残る。アンガー(ハーゲン)とコニエチュー(アルベリヒ)は,ヤノフスキの解釈のせいもあり影が薄く,ドス黒いほどの悪意の権化には程遠い。グンターは元来ハーゲンの操り人形なのでそれほど強い違和感はなかった。
クールマン(ヴァルトラウテ)はワルキューレの一員らしい強烈な歌いぶりで好演していた。ハングラー(グートルーネ)は声を張り上げるような歌い方で上滑り気味の歌唱で抵抗を覚える。ノルンとラインの乙女を演じた金子美香,秋本悠希,藤谷佳奈枝,小川里美の4人は予想以上に健闘していた。東京オペラシンガーズは好演していて,第3幕を盛り上げるのに一役買っていたのでは。
歌唱陣以上に不満をおぼえたのは,意味不明のコンピュータ・グラフィックス。ステージの後方の空間の3分の2ほどを占める巨大なスクリーンが吊り下げられていて,そこに物語の展開に応じて様々なCGが投影される。それらの映像は,舞台美術の替わりなのか,物語の展開を補足しているのか,登場人物の心象風景を表現しているのか,まるで見当がつかない代物。一貫性に乏しい要素が無秩序に混在していて,音楽に集中する妨げにしかならない困り物である。欲張り過ぎて雑多な要素を詰め込んだことと,映像の選択肢が乏しかったことが原因なのだろう。
良い意味でも悪い意味でも,ワーグナー作品の上演にまつわる現状を反映したプロダクションだったように思う。上演を興行的な成功に導くためには多くの来場者に抵抗なく受け容れられるヤノフスキの解釈と表現を採用したのも全く理解できない訳ではない。また,歌唱陣の水準やCGを用いた演奏会形式での上演も財政的に乗り越えられない制約を反映していることも分かる。現状に満足することなく,着実に前進することを願う。
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