【プログラム】
ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス」ニ長調 op.123
アン=ヘレン・モーエン(ソプラノ)
ロクサーナ・コンスタンティネスク(アルト)
ジェイムズ・ギルクリスト(テノール)
ベンジャミン・ベヴァン(バス)
バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
鈴木 雅明(指揮)
2017年2月3日(金),19:00開演,東京オペラシティ・コンサートホール
鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパンが初めて取り組む「ミサ・ソレムニス」は満を持しての挑戦であり,期待は決して小さくなかった。だが,やや期待外れと言おうか,肩透かしを食ったような格好だ。想像していた「ミサ・ソレムニス」とはかなり違った演奏だった。
その理由をこの何日か考えていた。おそらく「ミサ・ソレムニス」のバロック的要素を強調し過ぎたため,演奏がつまらなくなってしまったのではないか,と現時点では考えている。ベートーヴェン後期の作品がバロックの作曲技法を大幅に採り入れていることは改めて指摘するまでもない。そのことで深遠な世界を切り拓いたことも間違いない。しかし,それはあくまで古典派の作曲技法と分かち難く結びつくことで意味を成すのであって,バロック的な要素を古典派的な要素から分離して強調してしまうと,全体のバランスが崩れベートーヴェンとは似て非なる音楽になる。学究的なアプローチで「ミサ・ソレムニス」の中にあるバロック的な要素を発見するのは有意義であるとしても,それをベートーヴェンの音楽として統合できなければ,今回のように妙なものになりかねない。この日,「ミサ・ソレムニス」を聴いていて,モンテヴェルディの作品を聴いているような錯覚に陥りそうになったことが幾度もあった。
まず,冒頭の「キリエ」は異常に遅いテンポ。まるでクレンペラーの演奏のよう。古楽器でこれほどゆっくりしたテンポで演奏すると,ただでさえ密度の薄い響きがますます希薄になり,とてもベートーヴェンの音楽にはきこえない。さらに,引きずるような奏法に強い違和感を覚える。しゃくりあげるような,引きずるような奏法で何を表現しようとしているのか,皆目見当がつかない。ただ,気持ち悪さだけが残る。
グロリアからアニュス・デイまでは,通常のテンポに戻る。ただし,フレーズによって音の密度が極端に変わり,したがって音楽的なエネルギーが一定しない。たぶん,テンポを微妙に動かしているのだろう。だから,音楽がまだら模様になってきこえるのである。ベートーヴェンとモンテヴェルディが交互に現れるような,継ぎ接ぎだらけの音楽である。これまた「ミサ・ソレムニス」の世界に浸ることを妨げる効果は抜群といえる。
ここから先は素人の憶測に過ぎないが,「スティレ・アンティコ(古様式)」を意識し過ぎた結果なのだろうと思う。「ミサ・ソレムニス」が「古様式」を巧みに用いており,それを演奏で明示することがこの作品の本来の姿を提示することにつながると考えたのではないだろうか。そうとでも考えない限り,この演奏会を聴いたときの違和感を説明できないように思う。もちろん,こうしたアプローチが「ミサ・ソレムニス」本来の姿を表している可能性を否定できないのだが,既成概念に囚われているとしても,やはり「古様式」を過度に強調したために古典派の作品としてのバランスを失っているといわざるを得ない。ベートーヴェンの音楽が,モンテヴェルディのようにきこえるのはまずいだろう。少なくとも,全体的なまとまりに欠ける表現には問題があるといわざるを得ない。
独唱陣も力強さに欠ける。およそベートーヴェンの最高傑作のひとつを歌うにふさわしいとはとてもいえない陣容だ。一体どうしたのだろう。
ベートーヴェンは晩年になって,「ディアベッリ変奏曲」や「大フーガ」など難解な作品を書いた。「ミサ・ソレムニス」もこのような晦渋な作品に連なる音楽であることは確かだ。同じ時期に作曲された交響曲第9番が人類愛を謳い上げた作品だとすると,「ミサ・ソレムニス」や「ディアベッリ変奏曲」,「大フーガ」は神が創造した宇宙を賛美する音楽といえよう。そして,宇宙を対象にした分,スケールが大きくなり,複雑かつ難解な作品になったといえよう。こうした要素を十全に表現するためには,まず,音楽的なエネルギーを集中して作品を造形するアプローチを取るべきではないだろか。少なくとも,パワーを分散させる手法は避けるのが賢明だろう。たとえそれが作品の成り立ちを表現するものだったとしても。
これまでに聴いた鈴木雅明&BCJの演奏会の中で,最も強い違和感を覚えたことだけは確かである。
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