先日の日記「超凡破格の教育者 徳永康起先生」を再度、転載します。何度読んでも心から尊敬でき、感動される先生です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956630746&owner_id=5089039
超凡破格の教育者
ハガキ道伝道者・坂田道信氏が教育者・徳永康起先生についてお話しされました。
徳永先生は熊本県の歴史始まって以来30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが、「教員の仕事は教壇に立って教えることだ」と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。
だからどの学校に行っても校長に嫌われるんですね。自分より実力が上なものだから。
それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど行く先々で教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持ってみんなを勉強好きに変えてしまうんです。
授業の前に児童たちが職員室へ迎えに来て騎馬戦みたいに先生を担いで「ワッショイ、ワッショイ」と教室に連れて行ったというんです。
先生、早く教えてくれって。
先生は昼飯を食べない人でした。
なぜ食べないかというと、終戦直後、昼の時間になると弁当を持ってこられない子どもたちが、さーっと教室からいなくなる。
それでひょっと校庭を見たらその子たちが遊んでいたんです。その時から自分もピタッと昼飯を食べるのを止めてその子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ、・・・・ 晩年になっても。
これは戦前の話ですが
「明日は工作で切り出しナイフを使うから持っておいで」
と言って児童たちを帰したら、次の日の朝、
「先生、昨日買ったばかりのナイフがなくなりました」
という子が現われました。
先生はどの子が盗ったか分かるんですね。
それで全員外に出して遊ばせているうちに盗ったと思われる子どもの机を見たら
やっぱり持ち主の名前を削り取って布に包んで入っていた。
先生はすぐに学校の裏の文房具屋に走って同じナイフを買い、盗られた子の机の中に入れておきました。
子どもたちが教室に帰ってきた時、
「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」
と言うと
「先生、ありました」
と。
そして
「むやみに人を疑うものじゃないぞ」
と言うんです。
その子は黙って涙を流して先生を見ていたといいます。
それから時代が流れ、戦時中です。特攻隊が出陣する時、みんなお父さん、お母さんに書くのにたった一通、徳永先生宛の遺書があった。
もちろんナイフを盗った子です。
「先生、ありがとうございました。
あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を
送りたいと思うようになりました。
明日はお国のために飛び立ってきます……」
という書き出しで始まる遺書を残すんです。
それから、こんな話もあります。
先生が熊本の山間の過疎地の教員をやられていた頃、両親が分からない子がおったんです。
暴れ者でね、とうとう大変な悪さをやらかした時、徳永先生は宿直の夜、
「君の精神を叩き直してやる」
と言って、その子をぎゅっと抱いて寝てやるんですよ。
後に彼は会社経営で成功して身寄りのない者を引き取って、立派に成長させては世の中に出していました。
「自分のいまがあるのは、小学校4年生の時に、徳永康起先生に抱いて寝ていただいたのが始まりです。 先生、いずこにおられましょうか」という新聞広告を出して、40年ぶりに再会した、なんていう物語もありました。
この前もハガキ祭で教え子の横田さんという方に思い出をお話しいただきましたが、
初めから終わりまでずっと泣いているんですよ。
定年退職をされた方だから、もう50年以上も前の思い出ですが1時間ちょっとの間、ずーっと泣いている。
その方の感性も素晴らしいけど
やはり徳永先生の教育がすごかったんでしょう。
以上、「人間力メルマガ」(致知出版2011.10.20)より
森信三先生をして、「明治以後のわが国の教育界おける『100年1出』の巨人」、「超凡破格の教育者」と言わしめた人物。それは、熊本の小学校教師、徳永康起であります。以下、ネットより転載します。
鉄筆の聖者
http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hagaki/tokunaga.htm
徳永先生は、36才の時(昭和22年)校長を拝命するのですが、在任5年にして、自ら願い出て、平教員に降格してもらった。という人物です。
徳永先生は、毎朝3時に起床され、教え子にハガキを書かれました。
徳永先生は、森先生に師事しておりましたが、森先生がある時、「あなたは、実にいいハガキを書かれる。複写にして残しなさい」と徳永先生に指導されたが、徳永先生は、「嫌です。」と受け入れなかった。ある日、徳永先生の修学旅行先(京都)の旅館に森先生が突然訪ねて来られ、
「あれだけ言ってもまだ判らぬのですか!!」とお叱りになった。
さすがの徳永先生も観念されて、ハガキを複写にするようになった。
(このエピソードは私が、学生時代、寺田清一さんから直接聞いたものです)
かくして、徳永先生のハガキは後世に残ることとなった。それ以後没するまで、十有二年。その数、約二万三千通。
徳永先生は、ハガキだけでなく、当時ガリ版による学級通信『天意』を毎月発行され、没後間もなき日から、“鉄筆の行者”さらには“鉄筆の聖者”と呼ばれるようになったそうです。
昭和54年6月29日、徳永先生はついに逝去された。享年68歳。地元熊本日日新聞は、この一教師のために、三段抜きで徳永先生の逝去を大々的に報道した。校長でもない、一退職教師の死に対して、このような破格の扱いをしたという例は、戦後おそらく空前絶後のことであろう。《『徳永康起先生の人と教育』p.27より
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