(一昨日、昨日に続く連載です。)
テロが頻発する、といっても、近年になって急激にそうなった、というわけでもない。
ことさら、マスコミが取り上げる、
国際社会で議題となる、
という要因がある。
日本で、かつて 「日本赤軍」 や 「オウム真理教」 などのテロが大規模に行われているが、
取り締まりや組織の解体などで、彼らが現在活動しているわけではない。
極左活動も、相当低迷した状態になっている。
これらの事実は、テロそのものは社会側の対応次第で低下させることが可能だ、
という結果を示している。
海外で現在大きな問題となる活動をしているのは、
例えば、ISIS であったり、ボコ・ハラム であったりする。
しかし、その活動内容は、テロ、というよりは、やはり戦争である。
彼らのやっている戦争は、どこかまで領土を広げることができればそれで終結。
というようなものではない。
国際社会側の表では、彼らの撲滅がゴールであり、
その代表的な例を挙げるなら、イラクのサダム・フセイン政権の打倒や
リビアの、カダフィー政権の打倒、であっただろう。
独裁者、あるいは、独裁的組織によって恐怖政治が敷かれている国がある。
そして、そうした国の国民が報われないのは事実である。
「戦争があってもなくても、同じ」
と、思わせるぐらい、生活が成立しないほど社会が荒廃する。
世界の数多くの国で、そのような状況にありながらも、
状況を打破しながら進んできた国はもちろんある。
こうした経緯を見るなら、貧困が戦争の原因にはなるのだろうが、
さりとて、戦争がなければ、貧困を脱出できる可能性は高い。
農業ができないような不毛の地でも、工業的に作れるものはある。
形のないもの、いわゆるソフトウエアなどは、作る場所は選ばないものだし、
IT技術の発展により、インターネットにさえ接続できれば仕事は可能。
そう考えると、今世界中で起こっている戦争は、意外な結末を迎える可能性もある。
お金や生活のために、「銃を取るしかなかった」 人たちが、
銃をモバイルに持ち替えて、仕事をするようになれば。
わざわざ、命を危険にさらしてまで、戦う必要は無くなってしまう。
インターネットは世界中につながっていて、様々な価値観と触れることも、
世界の多様な宗教を学ぶこともできる。
意欲があれば、自ら学習する環境も手に入れられる。
そうであるから、わざわざ危険を冒すことはない。
学習を繰り返し、個々に適性のある仕事を手に入れていけばよい。
狭い地域や、一辺倒な考え方にとどまる必要は無くなる。
勿論、何もせずに放っておいて、そんなことは起こらないだろう。
ネットワークを整備する為には、ケーブルやサーバーなどのインフラも必要だし、
各自が、自分が使えるモバイルを手に入れるには、そこにも資金が必要。
けれども、日本で PHS が爆発的に広がったときのことを少し思い出すと、
流行に敏感な若者たちに、端末を無料で提供したのが始まりであった。
1990年代の半ばごろだったろうか。
同じことが世界でも実現できないだろうか?
去年、フィリピンの何もないような島に行った時のことだったが、
島の人々は、海で貝やウニのような食べものを拾ったりして生活しているのに、
ちゃんとiPadを持っていて、朝になるとニュースをチェックしたりしている人もいた。
体験的なものだが、その島に向かうとき、
私が船に乗り損ねて海に落ちてしまった。
船員たちが心配したのは、私の体ではなく、モバイルだった。
それほど、モバイルは世界でも着実に広がっていて、
そして、分かり易いインターフェイスが、余り予備知識がなくても
使いこなせるように導いてくれる。
これは、パソコンが普及し始めた時とは、大きな違いがある。
N88 ベーシックが立ち上がるだけのパソコンでは、
自分の使いたいソフトをわざわざディスクで入れてやり、
メモリー上に展開させなければならなかった。
(そのころハードディスク、という概念はまだほとんどなかった。)
次いで、インターフェイスが普及しだしても、
初期のウインドウズなどは、何の予備知識もなしに使える代物ではなかった。
大学などの環境で、情報処理が必然的に必要だった私などと違って、
大学へ行ってない人の中にはパソコンに触れたこともない人もいたし、
大学に行っていてもパソコンを(怖くて)触れない人も多かった。
現在のモバイルは、まだ価格的に子どものお小遣いで買えるようなものではないが、
Wi-Fiスポットの普及などが、より安価な端末を生み出していくだろう。
そして、そうしたインフラの整備は、なまじ旧世代のインフラのある国よりも、
何もなかった国でやる方が整備がしやすかったりもする。
一本の鉛筆と、一冊のノートがあれば、子供は学習ができる。
という、当たり前のうたい文句が、
ネットワークの接続環境と、端末があれば、、、、
と、変わっていく可能性はある。
そした革新的な社会構造の変化が可能性としてある以上、
無駄に戦争をして、命や財産を削るよりも、
早い段階で、武装解除して、有益な仕事を進める、という方針転換が必要だろう。
現状の日本でも、平和維持のために、多くの予算を割き、
自衛隊は危険な地域に派遣され、
現地の日本人は危ない目にあっているのである。
これらの流れを少し整理していくと、
根本的な解決が、新たな予算を組むことなく実現する可能性もある。
破壊と命を奪う戦争から、
より生産的で豊かな暮らしのできる社会に移行することは、
理想ではないかもしれないが、今よりもずっと暮らしやすい地球になると思われる。
それを、実現できるだけの、技術水準まで来ている、と言うことだ。
自衛隊が、自動小銃を持たず、代わりに紙やすりと光学グリスを持って、
世界中にケーブルを敷設していく、という姿が実現するなら、
それこそ、世界平和の実現である。
かつて、東西冷戦で緊張した時代には、
いずれ第三次世界大戦が起こり、核兵器におびえ、飢えと寒さに苦しむ未来ばかりが想像されるときもあった。
けれど、その根源的なイデオロギー対立は現在の世界に存在していない。
資源の配分に関して、多くの問題を残しているとはいえ、
国家の代表がまじめに取り組み、
民間のレベルでも、個人のレベルでも、
真剣に、平和を願った活動を続ければ、
戦争のない、未来、も実現可能だと思われる。
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■戦没者追悼式、首相が不戦の決意 加害と反省には触れず
(朝日新聞デジタル - 08月15日 12:19)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4143847
戦後71年の終戦の日となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれ、天皇、皇后両陛下が臨席して約310万人の戦没者を悼んだ。安倍晋三首相は昨年に続き不戦の決意を強調したが、アジア諸国への加害と反省には4年連続で触れなかった。
追悼式には全国から約5300人の遺族らも参列した。安倍首相は式辞で「皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを片時たりとも忘れない」と哀悼の意を表明。さらに海外に残された約113万柱の戦没者遺骨を念頭に「おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くす」と誓った。
歴代の首相が踏襲してきたアジア諸国への「加害」と、それに対する「深い反省」や「哀悼の意」については、第2次安倍政権の発足以来、式辞の中で触れていない。安倍首相は昨年に続いて「戦争の惨禍を決して繰り返さない」との表現で不戦の決意を示した。
正午の黙禱(もくとう)に続き、天皇陛下は「おことば」で昨年と同様に「深い反省」という表現を選び、「戦争の惨禍が再び繰り返されないこと」を切に願うと述べた。
参列を予定していた5100人余りの遺族は世代交代が進む。20年前に1千人以上いた戦没者の妻は初めて一桁となる7人。子や孫は3千人を超え、全体の6割に達した。遺族を代表し、父親の瀬川寿(ひさし)さんがフィリピンで戦死した広島県東広島市の小西照枝さん(74)が追悼の辞を述べた。(久永隆一)
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