以下、上村勝彦「バガヴァッド・ギータの世界」を要約。
アルジュナは弓矢を捨てて、悲しみに心乱れ、戦車の座席に座りこんでしまいます。第1章は、ここで終わります。以下、第2章です。
個人の中心主体
それに対して、クリシュナは微笑して、次のように答えます。これからクリシュナの教えが始まるのです。
あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。
私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・・。また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。
主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。
しかし、クンティーの子よ、物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来りては去り、無常である。それに耐えよ、アルジュナ。
それらの接触に苦しめらない人、苦楽を平等(同一)のものと見る賢者は、不死となることができる。 (2.11〜15)
実は、我々を成り立たせている個人の中心主体(個我)があって、それは過去・現在・未来にわたって永遠に存在しているからです。ある肉体を得たその個人の中心主体は、少年期、青年期、老年期を経て、死後に他の肉体に移ります。これが輪廻(りんね)の主体であると考えられますが、その個人の主体が肉体を得るということは、物質と接触することになり、我々は寒暑や苦楽を経験することになります。人間をはじめとする諸生物は、それに耐えなければいけない、とクリシュナは教えています。
物質との主体に苦しめられない人、つまり苦楽を平等、同一のものと見る賢者は、生死を解脱することができるとされます。実はこれが『ギーター』のテーマなのです。
個人の中心主体は、霊魂のようなものと考えてよいでしょう。これらは特定の肉体と結ばれている間は個人の中心主体(個我)ですが、同時にそれは「全世界を遍(あま)ねく満たすもの」(2.17)と見なされています。逆にいえば、宇宙を遍く満たすものが、精気、霊気のように、個々の生物に微妙なあり方で入りこんでいると考えられます。
このように、個人の中心主体が宇宙的な存在と関係をもっているということです。我々の肉体は有限ですが、個人の中心主体は不滅であるといわれます。
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。 (2・20)
この個人の主体は、人が死ぬとき、古い身体を捨てて新しい身体に移るといわれます。
人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。 (2.22)
このように、個人の中心主体は古い身体を捨てて他の新しい身体に移ります。これが輪廻する主体です。
自己の義務(ダルマ)
この霊魂のような存在は、永遠に実在します。その存在を確信するとき、人はもはや自分や他人の死を恐れることはなくなります。クリシュナはそのような存在が実在することを理性的に説いて、人を殺したくないというアルジュナの悩みを解消させようとしたのです。
生まれた者に死は必定(ひつじょう)であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。 (2.27)
しかし、クリシュナの場合は、だから戦って敵を殺せとアルジュナに勧めています。それでは、『ギーター』は人殺しを勧め、人を戦争に駆り立てる教えなのか、という疑問が生じるかもしれません。しかし、後の個所でわかるように、『ギーター』も当時認められていた一般の道徳を守るべきだと説いています。ただ、アルジュナのような戦士が、戦場で戦士としての自己の義務(ダルマ)を放棄すべきではないと説くのです。
更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、戦慄(おのの)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。 (2.31)
もしあなたが、この義務に(ダルマ)に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨てて、罪悪を得るだろう。
人々はあなたの不名誉を永遠に語るであろう。そして、重んぜられた人にとって不名誉は死よりも劣る。
勇士たちは、あなたが恐怖から戦いをやめたと思うであろう。あなたは彼らに敬われていたのに、軽蔑されることになろう。
またあなたの敵は、語るべきでない多くのことを語るであろう。これほどつらいことがあろうか。
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それゆえ、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。 (2・33〜37)
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