鈴木秀子「死にゆくものからの言葉」より。
精神障害の息子がいるからなんです
私は「命の大切さ」という市民大学の講演を行っていました。一人の女性が泣いているのが目につきました。
講演が終わって、そのAさんという女性が話し始めました。
「実は、私の体の中は洞窟も同じなのです。これまで8回、大手術をしました。子宮ガンから始まり、胃ガン、腸ガン・・・・。転移して次々と大手術を繰り返したのです。
こんなカラッポの体でね、どうして生きているのか、お医者様からも不思議でたまらないと言われています。
ではなぜ、私がこうして元気で生きていられるかと申しますと、実は私には精神障害の息子がいるからなんです」
Aさんは、その子が生まれてまもなく夫と離婚したのです。寝たきりのその息子は現在20歳ですが、幼児程度の会話しかできません。
彼女を必要としている息子のため、彼女は一度目の手術以来、医者にも周囲からも見放されながら、手術しては生き返り、また次の手術をしては生き返り、ついには働けるまでになりました。
「勤めを終えて家に帰りますとね、息子は布団の中からじっと私を見つめ、子どものように顔をほころばせて、それは嬉しそうに手足をバタバタさせて喜ぶんです。
わたしも元気とはいうものの、大手術を重ねましたから、お天気が悪かったり、重いものを持ったりすると体が動かなくなることもあります。でも息子の、本当に喜びを満面にした顔を見ると、一日の疲れが吹っ飛ぶのです。
これまで死ぬほどの重病にとりつかれましたが、『この子を残しては死ねない』との一心で生きつづけてきました。そして『あの子が家で待っている、私を待っている。私が生きていなければ、あの子は生きていかれないんだ』って。それだけしか考えませんでした。病気のことを考えている暇なんかなかったんです。
そして絶対に生きる。病気がどんなであろうと、お医者様が死ぬと言おうと、私は『生きる』と決めたんです。子どもが生きている限り、私は生きるんだって。これが病気になっても、病気とは関係なく生きつづけられる原因なんです」
いつでもニコニコと迎えてくれる子供の顔を見るたびにAさんは、「生きていて本当によかった」と思うのだと言います。そして
「お話を聞いていて、幸・不幸、というものは、世間一般に考えているようなことではないんじゃじゃないかと改めて思いました。このような息子を持つ,ボロボロの体でも、こうして幸せを感じることができるんですから」
私は講演の中で、幸・不幸というものは客観的にはかり知ることはできなのだ、また、苦しみの極みを積極的に受けとめ、生きぬくとき、生きる深いよろこびをもたらしてくれる、と話したのでした。
そしてその例として次のような話をしました。
私も精神障害の息子のおかげです
私の知人の家では、5人の子供に恵まれたものの、5番目の息子は身体障害者でした。しかも知能の遅れもともなっています。
世間的に見ればさぞかし大変であろうと思われがちですが、真一君というその子のおかげで、家族中が大変な仲良しでした。というのも彼らは、「ただいま」の次に必ず、「真ちゃんどうしてる?」と声をかけ、そしてその部屋に入るなり、
「今日ね、こんないい話があったんだよ」
と報告するのを日課としていたのでした。家族一人ひとりが、いい話を必ず一個持ち寄ったのです。
その子は残念ながら、それらの話を十分には理解できません。しかし分からないながらもニコニコと、まるですべてを理解しているかのようにほほ笑んで聞いていました。
そのためその子の父親も母親も、きょうだいたちも、今日はあの子に何を話そうかと、まるで花を摘むようにいい話を探さずにはいられないのです。
そうすると厭なことに気を取られなくなり、長年のうちにそれぞれが、日常平凡なことのなかから,毎日毎日宝物を探すようにいい話を探す習慣を身につけていきました。
家族中がその子を喜ばすことで結束し、仲のよい暮らしの中からいいものを見出す目が育てられてきたのです。
「あの子は我が家の宝物。宝の花をひきつける存在です」
それは知人の自信あふれる声でした。
Aさんは、自分の家もまさにそういうことであったのだと語りました。
「私の息子もほんとうに、そのお子さんのような存在です。そのお子さんが宝の花をひきつけるのなら、息子は命を湧きあがらせてくれる存在なのです。ですから本来ならばとっくになくなっているはずの私の命も、家に帰って笑顔を見せてもらうたびに、そして働きに出ていても、息子の喜ぶ顔を思い出すたびに、私のなかで生命が湧きあがってくるのです」
そのAさんから便りが届いたのは、それからしばらくしてからのことでした。
あの息子さんが、亡くなったという知らせでした。しかし文面には、
「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされております。あの子の笑顔が、しあわせに生きてゆくようにと呼びかけているのです」
と書いてありました。
私たちは、辛いこととか、いやなこととかが何ひとつなく、物事が自分の思い通りにいきさえすれば幸福であると考えがちです。
しかしもっと深い幸福があると思うのです。辛いことや思い通りにいかないこと、そういう状況のなかにこそ、見る目がある人にとっては、通常では見られない幸せというものが存在しているのではないかという気がします。
こういう話を聞くときや、医学的には考えられないのに、重い症状にもかかわらず元気で明るく生きていう人たちに接する時に、私はムスターの次の言葉を思い出します。
「もし悲しみがその人自身のものとして受け入れられ、その人の存在の中核で感じとられるならば、そのとき、苦しみは他の人間や、すべての生きるものへの情けへと成長する。苦しみによって心が開かれ、悲しみの中から陽気さと歓喜の新しい感情が起こってくる」
ログインしてコメントを確認・投稿する