【プログラム】
1 尾高 尚忠: 交響曲第1番 ホ短調 Op.35
〜〜〜休 憩〜〜〜
2 ブルックナー: 交響曲第9番 ニ短調(コールス版)
尾高 忠明(指揮)
札幌交響楽団
《ロビー・コンサート》
ハイドン: 弦楽四重奏曲第77番「皇帝」より第1楽章
土井 奏,熊谷勇太(ヴァイオリン)
青木 晃一(ヴィオラ)
石川 祐支(チェロ)
2015年10月30日(金),19:00〜,札幌コンサートホールKitara大ホール
10月,札響の定期演奏会は2回開催される。札幌コンサートホールが改修工事のため,2月中旬から6月中旬まで演奏会場として使用できなかった。だが,10月は月の初めと終わりに定期演奏会を行い,年間10回のペースを維持するためだ。
10月二度目の定期は,今年の5に札響の名誉音楽監督に就いた尾高忠明が,亡き父,尚忠に捧げる演奏会といえる。交響曲第1番は,作曲家であり指揮者としても活躍した尾高忠尚が未完のまま残した唯一の交響曲である。また,ブルックナーの未完に終わった交響曲第9番は,新響(N響の前身)の指揮者も務めた尾高忠尚が,生前,上演にこぎつけようとしたものの,叶わぬ夢に終わった作品である。
尾高尚忠の交響曲第1番は,後期ドイツロマン派が全盛期の頃にウィーンで指揮や作曲などを学んだことが,だれの耳にも明らかな,濃厚なロマンチシズムが横溢する作品。もちろん,日本人ならではの感性も反映されているものの,ロマン主義の美学が圧倒的な存在感を示す。朝比奈隆と同じ時代の影響を強く感じさせる。
言うなれば,尾高尚忠は,ブルックナー,マーラー,R.シュトラウス直系の弟子のような作曲家である。この日の演奏から受けた印象では,響きの軽さや明るさの点では,フランクやサン=サーンスなどフランスの作曲家と似かよった点がないでもない。さらに,蒸せるような濃厚さの点では,ラフマニノフを思い起こす。日本人には似つかわしくないほど濃厚な音楽を書いた作曲家がいたとは驚きであると同時に,39歳で早逝した尾高忠尚が長生きしていれば,その後どのような変貌を遂げたのかと想像せずにはいられない。
この日,ブルックナーの交響曲第9番を聴いていて,この作品を演奏するには,オーケストラにある種の品格がなければ様にならないと,なぜか直観した。それが具体的に何なのか言い表すのは難しいが,誤解を恐れずに言えば,オーケストラのメンバー全員が共有する気高さとでも表現すればいいだろうか。演奏の技術的水準の高さとは,別物の音楽家あるいは芸術家としての気品がなければ,この作品を演奏しても,その神髄を表現するのはおぼつかない。
それで,札響はどうだったのか。このような格の高さを備えていると断言するにはためらいを感じる。だが,まあ何とかぎりぎり合格という線に届いていないとも言えない。気品の点で,ブルックナーの第9番を演奏する取っ掛かりだけはつかみかけたという段階に達しているようだ。尾高尚忠の交響曲を先に持ってきた,尾高忠明の戦略が功を奏していたともいえる。
弦に厚みや深み,そして崇高さがやや不足気味であることは事実であるが,札響尾弦楽セクションはよく健闘していた。問題はやはり管楽器。トロンボーンやホルンの出来がもう少し良ければ印象は随分変わっていただろう。体格の問題もあるのだろうが,トランペットやトロンボーン,ホルンは,他の管楽器や弦楽器の比べ劣っていて,演奏の足を引っ張る結果に終わることが多い。演奏中に,この国では吹奏楽がこれほど盛んなのに,優秀な管楽器奏者,とりわけ金管楽器の演奏者が育たないのは何故だろうと考え込んでしまった。やはり,弦楽器の演奏者と比べて,ブラスバンドなどでは,カネのかけ方が違うからだろうか。
話しは少々横道に逸れてしまったが,札響がブルックナーの第9番を演奏する場合,もっと思い切って歌わせてみれば,演奏からより多くのエネルギーを放射できるのではないか,などと考えてみたりもした。このオーケストラの現状では重厚な響きを積み重ねて巨大な響きを生みだすレベルには達していない。メロディーをもっと美しく歌わせるアプローチを採れば,より強力な音楽的なエネルギーを解き放つことならできそうに思った。
いずれにしろ,前音楽監督の目論見は,ほぼ実現したとみていいだろう。そして,指揮者の期待に応えた札響も立派だった。ただし,尾高忠明と札響とが,従来の関係を維持していれば,このオーケストラがさらに伸びてゆく芽を摘む危険性孕んでいたと思う。尾高が札響に与えることができるもの,すなわち,札響が尾高から受け取ることができるものは,すべて吸収し尽したように,この日の演奏を聴いて感じた。もちろん,首席指揮者を変えることに,大きなリスクがついてまわることは事実だが。
ログインしてコメントを確認・投稿する