日本が革命に最も近づいた日(左翼運動の歴史、9)。
それは、1975年11月25日〜12月3日の動労、国労を中心とする「スト権奪還ストライキ」の時であった。
三派(中核派、共産同、解放派)を中心とする新左翼の運動は、1970年前後までに崩壊した。中核派、共産同の労働者、学生の多くが逮捕、解雇され、労働組合運動も、学生運動も出来なくなった。
解放派の学生は中核派と同じ道を辿ったが、労働者は武闘をやらず、普通の民同(社会党員の組合員)になっていった。
動労(国鉄動力者労働組合)の主導権を掌握した革共同(革マル派)は、1971年、動労、国労を破壊するための攻撃に完全勝利した(マル生粉砕闘争の勝利)、72年、動労は、大量逮捕、大量起訴、大量処分の弾圧をはねかえして「強力順法闘争」を貫徹した。「順法闘争」とは、運転の規則をすべて100%守ることによって、列車の運行を不可能に近い状態にする闘争である。
国鉄の規則は、かなり、それを、破らなければ、列車の運行が不可能であるように作られているのである。
1973年、動労に憎悪を抱いた権力者は、自衛隊員、暴力団、を大量動員して、大暴動を引き起こした。
暴動は軍隊のように訓練された国家権力の謀略部隊によって誘導、扇動されて発生した。
まず、1973年3月13日、高崎線上尾駅で6000名が暴動を起こし、4月24日、大宮、赤羽、上野、渋谷、新宿、池袋など38駅で暴動が引き起こされ、東京と、その周辺の首都圏は大混乱に陥った。これを「国電暴動」と言う。暴動においては、列車、駅施設の破壊、放火、略奪が行われた。
「上尾暴動」「国電暴動」が、組織的、計画的に引き起こされたものである事は証拠をもって、実証されている。
政府・自民党は、この暴動を「動労の闘争に苦しめられた国民の決起」として讃美し、動労を非難した。
しかし、動労は、この暴動にひるむことなく、1974年4月9日〜13日には、動労が主導した650万人が参加した日本史上、最大のゼネストが貫徹された。
そして、1975年11月25日〜12月3日には動労が牽引したスト権奪還ストライキが闘われたのである。
支配階級は、動労を中心とする革共同(革マル派)の闘いに、革命の脅威を感じた。
三木首相のブレーン加藤寛は「三木さん」「今や労働組合は、国家転覆すら考えているのではないかと思われる行動をしているのです」と訴えた。
加藤寛、後の副総理・後藤田正晴(元警察庁長官)は、このまま放置しておけば、革共同による革命が成功する可能性が、80%以上あると考えていた。
後の首相、中曽根康弘、福田丈夫も、革命成功の可能性が60%以上あると恐怖を抱いた。
社会党、共産党の連立政権ができても、それは、イギリス労働党政権より、はるかに保守的なものになると、三木、後藤田、福田、中曽根、田中角栄(後藤田の親分)、加藤寛は確信していた。
彼等が、恐れたのは、革マル派だけであった。
中曽根は、自衛隊に治安出動の準備をさせた。
中曽根は、スト権奪還ストライキについて「一種のクーデター、さらには革命的行為」であり、「少しでも妥協したら、日本の国家秩序は全面的に崩壊することになる」と主張した。
後藤田正晴は、革命を防ぐため、「内ゲバ」に見せかけて、革マル派と見なした労働者、学生の「大量虐殺」を実行した。
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