禅の精神(コンテクスト)の原点は、
「人は何処から来て、何のために生き、そして何処へゆくのか?」という人類にとっての大命題を、主観的に経験し理解することにあります。
禅問答は、「一即多、多即一」や「禅とは、禅であり、非禅である」といったような構文で論理破綻しています。しかし、
あなたがマテリアルとスピリチュアルの真実は正反対であることに気づけば、納得できるはずです。それは、あなたのエゴで知覚される認識は大幅に制限されているためです。
全米に禅宗を広めた鈴木老師の著作より『禅と美術』の章から、日本の芸術に宿る禅の精神について引用します。
「禅以外の仏教各派が日本文化に及ぼした影響の範囲は、ほとんど日本人の生活の宗教的方面に限られていたようだが、ひとり禅はこの範囲を逸脱した。これは意義深い事実である。禅は国民の文化生活のあらゆる場面の中へ深く及んでいる。」
「多様性の中に超越的な孤絶性 — 日本の文化的用語辞典では、
『わび』と呼んでいるものを我々は鑑賞するのである。『わび』の真意は、「貧困」、すなわち消極的いえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいこと、すなわち世俗的な事物 —
富・力・名にたよっていないこと」
「不完全さの美に古色や古拙味(こせつみ:原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところの『さび』があらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかもしれぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこに
『さび』が在する。『さび』は鄙(ひな)びた無虚飾や古拙な不完全さに在する。見た目の単純さや無作法な仕事ぶりに在する。」
老師は、禅の美術について「色即是空。空即是色」を色濃く反映させた結果として『わび』と『さび』の表現へ進化させたと述べています
「禅匠たちが、いやしくも、芸術に対して感受性をもつ以上は、その鍛錬によってえた根本的直観は彼らの芸術的本能を動かすにきまっている。直観は明らかに芸術感情と密接に関係しているからそれによって禅匠たちは美を創造する、すなわち醜さや不完全なものを通して完全感を表現する」
明日に続きます。
「これは、偉大な聖者と、解き明され悟ったヒーラーたちによって証明されているヒーリングと同じメカニズムです。彼等や彼女等のまさに存在が、放射する愛の強い波動/振動のため、癒す能力を持ちます。このヒーリングの能力、−スピリチュアル・ヒーリングの基盤−も、また愛の思考/想念から変容させられるものです。まさにこの愛の本質により癒され、歴史を通して文書によって、記録された多くの人々は、伝説上の存在です。例えば近代の歴史において、マザー・テレサが非常に多くの人々を癒したのは、無条件の愛と解き明された実在の、それらのまさにメカニズムによるお陰です。意識の法則に馴染みのない人々にとって、それらの癒しの類は奇跡に見えます。しかし意識が高く経験のある人々にとって、そのような現象は、ありふれたことで予期されるものです。高い意識レベルでは、自分達自身を癒し、変容させ、他者に悟らせる能力があります。これが譲り渡しのメカニズムの価値です。愛することの障害を手放すことにより、私達の愛する能力は、漸進的に増強されます。すると愛する能力は、私達自身と同様に他者を癒す能力があります。」
(『Letting Go: The Pathway to Surrender』93頁より)
「癒された人は、癒す人になる
」と、ホーキンズ博士はいいます。私も、また多くの人から「あなたと一緒にいると、ほっとする」と言われ続けてきました。それは、誰に対しても私は優しい気持ちを放散するためです。
他方で、私はアドレナリンを分泌している人を正確に区別出来ます。これもまた、私自身、エンドルフィンの出し方を理解しているためでしょう。
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