第50回ノカマップ・イチャルパ(供養祭) 9月20日11:00から
場所:根室ノカマップ(有)丸星水産番屋(根室市牧の内131番地
問い合わせ 事務局TEL080 6080 1492 (添付写真)
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札幌地下道アイヌ差別展示問題。
北海道大学での、アイヌ遺骨及び副葬品窃盗事件の謝罪の年、何か確りとした、加害者側の謝罪と補償の中ウレシパな関係の修復こそ必要と思います。
Sさんのコメント
9月18日は、アイヌで初めてアイヌの物語を文字化した名著『アイヌ神謡集(しんようしゅう)』を書いた知里幸恵(ちり ゆきえ)の命日です。
登別郷土資料館を訪れたときに、初めて知里幸恵が登別出身だということを知りました。
登別には知里幸恵のお墓があり、生まれた場所の近くには「知里幸恵 銀のしずく記念館」があります。
1871年(明治4年)に戸籍法が制定されると、アイヌが本来持っていた名前は公的な資料から消されてしまいました。
シカ猟・サケ漁は北海道全域で禁止され、死者が出た家を焼いて転居する慣習(チセ・コミル)や、女性の入れ墨(シヌエ)、男性の耳輪といった習俗も禁止され、日本語が押しつけられました。
1899年(明治32年)には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの集落があった場所に「旧土人小学校」が設立されました。そこではアイヌの言語、歴史、神話を学ぶことはなく、アイヌの子供たちは日本語と和人の価値観だけを教育されました。
明治政府によって、アイヌは言語と文化と土地を奪われ、「日本人」になることを強いられたのです。
幸恵自身、和人の学校に通いながら、誇るべき豊かな文化を持ちながらそれを堂々と語ることが難しい。そんな引き裂かれるような複雑な思いを、幼い頃から抱えていたといいます。
知里幸恵が生きた1903年(明治36年)〜1922年(大正11年)は、差別の中でアイヌの言葉を話すことをためらう人が多くなり、祖父母から伝わる神謡(カムイユカㇻ)が語り手とともに消滅の危機に瀕していた時代でした。
アイヌの人々は和人からいわれのない偏見の目を向けられ、就職や結婚の場面でも「アイヌ」であることを理由に不当な差別を受けていました。
私たちが今年の夏に旭川市博物館を訪れた際、旭川市立北門中学校内に「知里幸恵資料室」があることを知り、訪れることができました。
ここは、幸恵が6歳から19歳まで暮らしていた伯母・金成マツの家があった場所です。
金成マツは、アイヌへのキリスト教伝道に生涯を捧げたイギリス人宣教師ジョン・バチェラー(John Batchelor)が創立した愛隣学校の卒業生でした。
この学校で、金成マツはアイヌ語のローマ字表記を習得します。
1909年にキリスト教の伝道者となったマツは、旭川の聖公会で布教活動に入り、日曜学校を運営しながら姪の知里幸恵と母のモナシノウクを引き取り、3人でともに暮らすようになりました。
興味深いのは、金田一京助の証言によると、マツはキリスト教徒になった後もアイヌの伝統的な信仰世界を保ち続けており、その両者の間に矛盾や衝突を感じていなかったということです。
金成マツは、大学ノートにして一万数千ページにも及ぶ膨大なカムイユカㇻを書き残しています。
アイヌ語をローマ字で記録したこの資料は、現在のアイヌ語・アイヌ文学研究にとって極めて重要な資料になっています。
幸恵はアイヌの口承文芸を記録するために旭川のマツの教会を訪れていた言語学者・金田一京助と出会い『アイヌ神謡集』が誕生したのでした。
和人の言葉にもアイヌの言葉にも秀でた幸恵の聡明な語学の才能を見抜いた金田一は、カムイユカㇻをローマ字で書き取るよう幸恵にすすめます。
幸恵は、伯母マツや祖母モナシノウクの膝で聞いて育ったカムイユカㇻを、ローマ字表記とみずみずしい日本語訳とで一つひとつ書き留めていきました。
幸恵は命に関わる重い心臓病を抱えていました。
それでも自分が語らなければ、この美しい世界は誰にも知られぬまま消えてしまう。その思いが、病身の少女を突き動かしていたのでしょう。
1922年(大正11年)5月、幸恵は周囲の心配と反対を押し切り、原稿の清書と出版準備を進めるため、単身で東京の金田一京助の家へ向かいました。
幸恵の日記には、金田一家で過ごした日々の心の軌跡が詳細に綴られています。
他界する約3か月前、6月29日の日記には「何故に神は我々に苦しみをあたえたまうのか」という問いが記されています。
このころ幸恵のもとには、叔母のマツから、借金の形(かた)に和人に売られて病気になり、家に送り返されたあるアイヌの娘が亡くなったという知らせが届いていました。
そのあまりにも不幸な身の上を思い、幸恵は生を「恐ろしい魔の抱擁」と表現し、アイヌが置かれている理不尽な境遇への思いを日記に吐露しています。
7月12日の日記には、幸恵の次の言葉が記されています。
私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。私はアイヌであったことを喜ぶ。
アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!
1922年9月18日、心血を注いだ『アイヌ神謡集』の原稿がすべて完成したその夜、幸恵は心臓麻痺に見舞われ、息を引き取りました。19歳という若さでした。
遺体は雑司ヶ谷の墓地に埋葬され、数年後、お墓は故郷の登別に移されました。
『アイヌ神謡集』は、翌1923年(大正12年)に郷土研究社から刊行されました。
その後、英語やフランス語による全訳をはじめ、約35カ国の言語に翻訳され、世界中に知られるようになりました。
今でも国内外の研究者や留学生、記念館を訪れた人々の手によってボランティアで翻訳が重ねられ、翻訳言語の数を増やし続けています。
今回の北海道の旅は、期せずして知里幸恵の足跡を辿る旅となりました。
私たちが金田一京助の故郷から来ましたと告げると銀のしずく記念館の学芸員の方から、ありがたいことに以下の蔵書を献本していただきました。
「松浦武四郎とアイヌ」
「コシャマイン」
バチェラー八重子「若きウタリに」
茅野茂「アイヌの碑」
「赤蝦夷風説考」
「テケカラペ女のわざ」
誠にありがとうございました。
知里幸恵に関する資料を展示していた主な施設
登別郷土資料館
札幌市アイヌ文化交流センター
旭川博物館
旭川市立北門中学・知里幸恵資料室
銀のしずく記念館
参考文献
アイヌ神謡集/知里幸恵
知里幸恵日記書簡集/知里幸恵
ピリカチカッポ/石村博子
私
[水谷 和弘](
https://www.facebook.com/kazuhiro.mizutani.31?comment_id=Y29tbWVudDoyOTAwODU5MDQxODc3Njg0Ml8xNjA3MTA0NzQ3ODEyMTUy&__cft__[0]=AZhuJ5N-CZ-lGMzc5vkgPdlZmzMFoJBZllK4fKNFmnZh1QfUm5QD2hMytcQTRunYbLJiDGamfLl24UCOB7r2uef8AcB4GubaLm2YBm10-yNe2kJPsuh6VqD5V6ZVe6b6vHxFbksxdfJUYpT3CSQUeZiXwgiL7I9dEGudY4YImxnwakuwQPABVIbrlUoKO04&__cft__[1]=AZg_N5YyyHWBM5Oy9GODy9A25hD3Y9GkDkBkFtMl7z-Heru7gB6Z6i4hjNr74fhYBZqOkeH5NUuYoLILMYlPggrv9owD_oXAjCPyW6bynNW9sJcWECzRWeKNnFbw-yn_5f-mEoew-cOLfkNLtxr7_OYSvDHBP0DmRn6OYzwq46djKF1_Yp75V2WUGW-l_7E&__tn__=R]-R) のコメント
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唐突ながら、深い所と浅い所を繋げる意味での。
最新の 多次元泡宇宙 の 構造ともつながる
自然崇拝 アニミズム・シャーマニズム の
ウレシパ の 世界観を持つ
アイヌによる
アイヌの為の
アイヌの映画 の
必要性 と 完成を深く祈り願う。
サルンクルアイヌの際も慎み深い挨拶
アイヌの伝統的なカムイと向き合う時の儀礼【オンカムイ=胸の前で両手を合わせて左右に3度横に振り、胸の前で両手を上にしてカムイを向かい入れる作法】をしてイランカラップテ アンナー と唱える
:私が思う意味は、オンカムイ「私は自我を払いあなたと言うカムイ=精霊を謹んで向かい入れます」
謹んで申し上げます、あなた様の心に触れさせて下さい。です。
戻します、『 アイヌ神謡集 』とは、知里幸恵が編纂・翻訳したアイヌの神謡(カムイユカラ)を記した歴史的な書物であり、アイヌ自身の手による最初の本格的記録です。
冒頭
アイヌ語原文
シㇰネㇷ゚ カㇽㇺイ
ルㇱネㇷ゚ カㇽㇺイ
シネㇷ゚ カムイ
ルㇱネㇷ゚ カムイ
シネㇷ゚ シㇰネㇷ゚
ルㇱネㇷ゚ ルㇱネㇷ゚
幸恵の日本語訳(要約)
銀のしずくがふるふると降りそそぐように
金のしずくがふるふると降りそそぐように
これは単なる比喩ではなく、カムイ(精霊)の祝福が身体と魂に降りそそぐ光景を描いたものです。
● それは種明かしすれば、霊的象徴で。
銀=月の光、夜の浄化
金=太陽の光、生命の再生
ふるふる=震えながら降りる「霊の粒子」
しずく=天と地をつなぐ媒介
つまりこれは、宇宙から降りてくる生命の粒子が、魂を再生させる瞬間を言葉にしたものなのです。
どうしてでしょうか 知里幸恵はこの言葉を序文に置いたのか。
知里幸恵は東京の国学者(金田一京助)の家で、【アイヌが聞いたカムイと言う精霊の「声を文字に閉じ込める学問」】の中心に立たされていたのです。
その中で彼女は、声の流動性=アンナを守るための祈りとして
この言葉を序文に置いたのは何故かなを紐解きます。
最初に29年ウレシパモシリに、奄美与路島の同居人と一緒に住み。アイヌの三大蜂起、コシャマイン シャクシャイン 国後メナシの各慰霊祭やその後の交流会更にアイヌの各コタンにある記念館に尋ねた私が知るアイヌは、私に知る限り木彫りなどに付ける日本的な意味合いで言う家紋的本人を示す印以外は、口承文化で文字が無くその文字文化はアイヌだとコタンごとに違う叙事詩と評価されたりタブーや英雄伝から笑い話も含みアイヌの世界観を短いものでは10分長いものでは数日掛けて、炎と煙と暖が取れる金の杖を持つ年取ったお祖母ちゃんの精霊=アテフチカムイ居る囲炉裏の端を木のぼっこでリズムよくたたいて語り、子供達やコタン全体に教え語る「ユーカラする」がアイヌの世界観を理解する故の前提が必要です。
この前提から、ここで言う。
a(ア)大地 母性 根源 広がり 受容
● n(ン)内側 深層-息・霊の震え -「内に宿るもの」
アイヌ宇宙論では、
世界は「外側の力(カムイ)」と「内側の力(人・大地)」の循環で成り立つ。
アンナはこのうちの 内側の力=大地の霊的生成力 を象徴する。
「アイヌネノアンナ=人は母なるもの」
という解釈で知里幸恵の生涯そのものなのです。
● na(ナ)形を与える 名(na)=存在の名 生成の力 -「そこにあるもの」 これらが重なると、
anna=根源に宿る女性性/大地性/母なるものの名という霊的な語感が立ち上がる。
その中で彼女知里幸恵は、活字と言う流動する声=アンナを守る者 になった。
*ユーカラするとは: 世界を語り直す 名を再び立ち上げる 大地の力を循環させる コタンの魂を再生すると言う深い多重の意味合いが有ります。
知里幸恵は、この「声の宇宙論」を崩さずに、
まとめると、知里幸恵は、アイヌの口承文化を全く崩さないで、活字と言う流動する声にする際にアイヌ文化の深いアンナを守る者として、初めてアイヌのその世界観をまさに知里幸恵己の命と引き換えて「ユーカラする」=世界を再生する行為を活字にした「アイヌネノアンナ」なのです。
活字という新しい器に声を移した最初の存在なのです。
故に知里幸恵の「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。」という宣言は、近代国家の暴力的同化政策を超えて、アイヌの存在そのものが宇宙と結ばれていることを思い出させる「根源のことば」だと感じます。
アイヌのカムイユカㇻは、単なる「民俗資料」でも「過去の文化」でもなく、最新の宇宙論が語る 多次元泡宇宙の構造とも響き合う
それこそが、自然崇拝・アニミズム・シャーマニズムの生きた叙事詩だと思います。
故にです、和人の視線や観光資本のためではない、叙事詩カムイユーカラとしての本質を描いた。
アイヌによる
アイヌのための
アイヌの世界観 をそ のまま呼吸する映画
が、どうしても必要だと強く感じています。
それは「被差別の歴史」を語るためだけの映像ではなく、ウレシパ(互いに育み育て合う〜分かち合う)という倫理と宇宙観を土台にした、生命倫理の賛歌イヨマンテと大地と存在全ての精霊と語り合うカムイノミの連続性を描く映画であってほしい。
知里幸恵の晩年、1922年5月13日に上京し、本郷区の金田一京助(東京帝国大学助教授・言語学者)の所に住み込みながら『アイヌ神謡集』の編集・翻訳・推敲を行いました。
本人も承知の病身の身体を押してまで「消えてしまう前に記録しなければ」と命を削ってまさに必死に持てる脳裏の祖霊の言葉を全て文字に表記し残したように。
【歿日1922年9月18日、享年19歳】
これからの時代には、アイヌ自身の手による上記の様な映像表現が世界の多くの人々にとっての「新しい神謡」となりうると信じています。
その映画の構想と完成を、静かに、しかし深く祈り願います。
なおアイヌに関しての誤解・若しくは間違いが有りましたなら深く謝罪すると同時に、「ウレシパ」で訂正をお願いいたします。 拝礼拝
水谷 和弘
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