何が言いたかったのか 少し思い出したので 松本良順については
良順自伝によっていろいろと印象的なところがあるが
会津はまとまらないなあ と言って 土方歳三と共に米沢仙台と進んだ。
会津では 日新館を野戦病院にして 会津の漢方医者も学んだが
七日町では岩本瓜子が大塩村から来てナイチンゲールになっていたので
接点は有ったのか 記録にないが。
良順は 只見まで出張して 八十里峠の越えてきた河合継之助さんの脚をぶった切って 城下に帰った。 あっちで会いましょう。
しかし河合家老は そこで死んだ。 僕は そこに行ってないことに気づいた。
その辺には鬼渡神社がある。
城中で容保公を前にして藩論が交わされていたが どういうことウィ
話していたのか 具体的には書いていず 会津人はまとまらないのであった。
各々方は主張が強く結束が出てこなかったということか。
戦略的に 籠城か 城外で戦うか いろいろ考えられると思う。
奥羽越列藩は越が来た事になり
旧幕軍 が 桑名の半分が 詰まり江戸桑名藩邸が 来た。
リョウソウタイが藩邸から来た。
戦略ができなかったにである。
籠城したが 上から撃ってきた。
これに撃ち返したがちょっとだった。
さて なにが言いたかっらかは ・・ 硝子戸のなじゃ 夏目漱石
によると 松本良順の医院が 向かいの早稲田実業の敷地にあったのだ。 その後順天堂大学に移ったわけだ。
僕は 菊井町にいたが 夏目漱石の家は知らなかった。喜久井町。
最寄りの神社は穴八幡で 高台にあるが狭い。 松本は佐倉の佐藤泰然の次男で養子に行った。 軍医総監は初代か 温泉 いや 海浜保養所を東海に作ったが リュウマチに苦しんだ。よく歩いたからか
京都ではぢんせん組宿所の衛生を指導し 牛肉を食っていた。
良順の号が 蘭疇 でまさに 和蘭を範疇にした。
写真は 先祖の弟の医師に与えられた。 出世しなくても 草莽として国に尽くしましょう という意味である。
弟は医者の養子に行った。
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