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2026年07月05日00:00

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父の炊いた飯盒飯

【キーワード】父の思いをつなぐ、平和の味を噛み締める、悲惨な戦争は繰返すな


 あれは、たしか、当方が小学1年で、姉が小学4年の夏休みだったと思う。

 何を思ったのか、休日の朝、突然、父が、今から吹上浜の海水浴場とキャンプ場へ遊びに行くから、姉と当方へ支度をせよ!と云う。

 当方と姉は、夏休み中の、父の家族サービスかと、ルンルン気分で、JRと私鉄を乗り継いで、吹上浜の海水浴場・キャンプ場へ到着した。

 早速、砂浜を抜けて、海水浴場へ向かうのだが、キャンプ場から海水浴場へ向かう道が長く、おまけに、カンカン照りで砂は熱く、当方は泣きべそ状態だ。

 見かねて、父は当方をおぶって連れて行こうとした事までは、覚えているが、不思議な事に海水浴の事は殆ど覚えていない。

 海水浴を済ませて、お昼時となり、キャンプ場で、父が今から、飯盒炊飯をすると云う。

 キャンプ場も飯盒炊飯も初めてで、どうするのかと父の一挙一動を黙って見ていると、家から持って来た真っ黒な、飯盒に米と水を入れて、海岸の松葉や枯枝に着火して飯盒炊飯を始めた。

 この真っ黒な飯盒は家の納屋に置かれていた物で、どうも父の軍隊時代の遺物のようだ。

 羽釜の米をかまど(竈)で炊く様に、"始めチョロチョロ、中パッパ"で炊き上げた後は、"10分間のむらし"だ。

 父の、「もう、ええじゃろう!」と云う声で、飯盒の蓋を開けると、うまく炊けて米粒が立って、美味そうだ。

 おかずは確か、缶詰の「酒悦(しゅえつ)の福神漬け6号缶」だったと思うが、腹ペコ状態だった事もあり、とても、美味かった事を覚えている。

 父は、子供らが美味そうに食べる姿を、やや微笑みながら、満足そうに、缶ビールを飲みながら眺めている。

 当方は、グラスに入った、泡立った黄金色の液体が珍しく、当方が飲むのをねだったからなのか、父はグラスに1/5ほど注いで、飲んでみろと云う。

 初めて飲むキリンビールの味が苦かった事と美味かった飯盒飯の味は、約60年近くの昔の事でも鮮明に覚えている。



 なぜ、急に、父は、キャンプ場での飯盒炊飯を思い立ったのか、しかも軍隊時代の古い飯盒まで取り出して?・・・

 父は、太平洋戦争のインパール作戦の奇跡の生き残りだ。

 インパール作戦とは、

 『
 昭和19年(1944年)3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。前年から始まった連合軍の反攻を食い止め、中国・国民党政府への援助を遮断するためだった。

 いったんは、連合軍にとっての拠点の一つ「コヒマ」まで進み、これを制圧、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は発動から3か月あまりで失敗に終わった。そして、撤退路の多くで、将兵が飢えと病に倒れた。インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにも関わらず、牟田口軍司令官に依って強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりする等特異な事態が出現、戦後も長きに渡って批判された。

 インパール作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人に及ぶ。


 奇跡の生還を遂げた父は、インパール戦線の余りの惨(むご)さと、生き残りの引け目からか、家族や周囲には、戦争の事は一言も語らなかった。

 ただ、父の弟の叔父が語ったが、「わしと兄貴はなあ、奇跡的に、ビルマで会う機会があった。わしは、撤退戦で胸部銃弾貫通の重症だったが、奇跡的に生還出来た。」と奇跡的な出会いと、職業軍人の叔父のインパール撤退戦での戦況・惨状を聞く機会があった。

 父は、新婚間もない妻(当方の母)と幼子(長女)と母と兄弟を残した徴兵で、父親の居ない母子家族の長男だったから、「家族の面倒を視る為に、どうしても生きて帰る!」とビルマで再会した叔父に語ったと云う。

 当家で出征した、長男の父(徴兵)と次男の叔父(職業軍人)と三男の叔父(霞ヶ浦少年特攻隊)は、奇跡的に、三人とも、生還した。

 兄弟の出身県は、九州の典型的な封建県で、武門を尊ぶ風習があり、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の戦陣訓が幅を利かす所が大きく、戦後もかなり、父は苦労した事だろう。

 父と叔父は生還出来た理由は決して語る事は無かったが、推測するに、あの酷い戦況で生還出来たのは、二人とも、敵の英軍の捕虜になったからだろう。叔父が重症だったのに、傷が癒(い)えたのも、捕虜中の英軍の治療があったこそだろう。

 父は家族に戦争の事を語る事は無かったが、戦友には、水・食料の補給も無い、無謀な戦いを強いた師団司令部・大本営の無謀さに怒りを顕(あらわ)にしたと云う。

 こんな思いからか、出先の公務員(日本専売公社)であった父は、勤務地の煙草工場・地方局を東京から視察に来るキャリア官僚の大蔵省の役人が来る集会でも、故意に10分遅れて来ると云う事が再三だったと父の友人が語った事があった。

 戦後、出身県に生還した父は、母子家庭の母や妹達と妻の面倒を視る為に、日本専売公社の公社員に復職したが、復員した次男と三男の叔父達は無職で、復員兵を視る目が厳しい土地柄を考慮して、父は、親戚の従兄弟が、香川県直島の三菱金属直島製錬所の精錬課長だったので、二人の県外の直島製錬所への就職を依頼した。



 今にして思えば、戦争中は命をつなぐ大事な道具の黒い古びた飯盒を持ち出して、子供らに、平和の意味を後で思い起こさせようと云う、父の思いが込められた飯盒飯だったんだろう。

 飯盒飯を食べる子供らを視る父の穏やかな顔と美味かった飯盒飯の味は、今でも鮮明に思い出す。


【追 記】(2026年3月20日)

 吹上浜キャンプ場には、数十年前に行ったきりだが、添付写真に示す様に、設備や環境・風景が良く、県が管理しているので、子供連れでも安心だろう。

 テントはどうもと云う向きにも、バンガローやホテルもあり、プールや遊技場等も整備されており、オートキャンプにも最適だろう。

 会場の案内や予約は
https://fukiagepark.synapse.kagoshima.jp/content/camp/camp-sisetu.html
  https://www.nap-camp.com/kagoshima/11472
https://www.kagoshima-kousya.jp/camp/front/index.php


【追記2】(2026年3月21日)

 昨日の「高市トランプ会談で、日本の随伴記者の「なぜ、今回の奇襲攻撃を事前に同盟国に知らせなかったのか?」と云う大統領への質問に対して、トランプ大統領は、こう皮肉ったと云う。

 「なぜ、かって? そりゃ、攻撃をうまく済ます為さ! 日本は真珠湾攻撃をした国だから、奇襲攻撃には詳しいのだろう? なぜ、日本は真珠湾攻撃の前に、その事を知らせてくれなかったのかねえ?」と・・・

 これを聞いた高市首相は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったかの様に、凍り付き、何も発言しなかったと云う。

 ここは、ドイツ首相みたいに、当意即妙にこう、切り返すべきだった。

『大統領閣下! 日本は、貴国の占領軍司令官のマッカーサー司令官の御指導で、日本が二度と真珠湾攻撃の様な無謀な戦争を仕掛けぬ様に、日本国憲法を授(さず)けて頂いております。今回の訪問の目的は、この日本国憲法の規定に依り、貴国へ協力出来る事と、出来ない事がある事を御説明に伺ったのです!』と・・・

 ドイツ首相は、トランプ大統領の不規則発言の、「今日はノルマンディ上陸記念日だが、ドイツ人にとっては、一番、面白くない日だろう?」に対して、こう切り返した。

 「いえいえ、大統領閣下! ドイツ国民にとっても、その日は大切な記念日なのです! その日は、独裁者のヒットラーから解放される期初となる日となったからです!」と・・・

 日本の随伴記者のトランプ大統領への質問は、少々、奇異な、場違いの質問であり、トランプ大統領の御機嫌を損じ、必ずや、不規則発言を招くと予測の付く質問ゆえ、トランプ大統領の出方・対応を伺う質問と云うよりは、高市首相の外交手腕である、瞬間判断能力・現場対応能力を視る為の質問だった。
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