ソフィスト(詭弁家)は、「あなたがそれをいいと思うならその通りすればいいし、私はこれがいいと思うからこれをすればいいのだ」と、もっともらしく道徳的相対主義の正当性を主張します。
ソクラテスは、何故ソフィストを問題視したのでしょうか?
それは、あなたの「いい」が、私の「いい」と同じでしょうか?という問題ですね。一番の問題は、「徳を積む」という際の『徳』の意味を、ソフィスト達は、明確に定義しないにもかかわらず、いかにも『徳』の話をしているかのような論法で、議論相手の意見を論破する方法を人々に教え、金銭を得ていたためです。以下ホーキンズ博士の論述です。
低い意識のマインドは、論理的真実について訓練された弁証法の対立から、利己的合理化を代わりに用います。この最適な例は、「フィアデルフィア・トランペット」(2005年6月)から後述の引用に、適切に描写さています。それは「道徳的相対主義」が社会を侵害しており、学術の世界を蝕み、結果的に生じている真実レベルの堕落です。
道徳的相対主義は、正しいか、間違っているか定めることを、個別的、個人的選択であるとする信念です。絶対の法律の存在を否定しいるこのイデオロギーは、あらゆる決定が個人的裁量の感覚的問題であると考えています。
例えば道徳的相対主義は、客観的に姦通は悪くないことを意味します。私は、結婚を無効にする行為と思うかもしれませんが、一方であなたは、それは権利であり、それは結婚の絆を更に深めると思う資格があります。これと同じ推論は、殺人、盗み、ロリコン、その他、あらゆる人の人生の側面に当てはまります。一方でこのイデオロギーは、完全な『正しい』や、『間違い』に関する定義などは存在していません。ただあなたが「何が正しいか、間違いか」について認識するのみです。
この歪曲された信念は、私達の世界中で大変な侵害を冒しています。世俗主義(無神論)者達によって、作り出された道徳的相対主義は、総合大学(訳注:欧米では神学部を含む大学のこと)の文化、特に科学の二次的産物です。神の存在を否定することにより、進化論は、道徳的相対主義の種をまきました。仮に神が存在しなければ、その時、世俗主義者達の理性に絶対なる法は存在していません。
彼等の武器である道徳的相対主義を用いる、自由主義の世俗主義(無神論)者達は、彼等が望む、「どのような絶対の法も破ることを可能にする」ものです。社会を統治する法でさえも破られるでしょう。ほとんどの人々は、アメリカの法、イデオロギー、および道徳律は、ユダヤ・キリスト教の信仰である『十戒(じっかい)』によって根本的に統治されていると認識しています。神が存在しない以上、その時、相対主義者によれば私達が扱っているすべては『十戒』ではなく『十の疑問』です。法は存在しません。絶対の法は存在しないことから、正しいか、間違っているか、定義するのは完全に個人的問題です。
これは、ワード・チャーチル、ハリス・ミルキン、そして事実上の相対主義の人々が、「反アメリカ主義と、ロリコンといったイデオロギーを、何故、支持することが出来るのか?」ということです。仮にある人が、絶対の法に信頼を置けないならば、その時、彼や彼女は、ロリコンは悪いと信じることを求められません。道徳的相対主義は、正しいか間違いか、道徳的か、それとも反道徳的か、定義する法を無効にします。
(Transcending the Levels of Consciousness: The Stairway to Enlightenment;227〜228頁より)
ログインしてコメントを確認・投稿する