あなたは、上辺だけの親切と、こころの底からの親切の違いを見破れるでしょうか?
ソクラテスは、その見分け方を人々に伝えたため、陶片追放の憂き目に遭います。しかし彼は、ホーキンズ博士によると「自分の信念を曲げる訳にゆかず、逃げず死を選択しました。」と述べている通り真実への信念を曲げませんでした。
私には、商才は全くないので、近江商人の『三方よし』を実践して生きてゆくことは出来ません。でも私は、「武士は食わねど高楊枝!」といったそのようなやせ我慢はしません。自分に商才のないことについて、苦痛もなく、あるもので満足の「足るを知る」生活です。
いまNHKの朝ドラ『ばけばけ』では、かなりシビアに、明治初期における没落士族の生活を描いていますね。
いうなれば、お勉強だけ一生懸命していた学生が、何のノウハウもないのに、いきなり厳しい生存競争世界に放り込まれたといった、そのような士族の多くは、人生の敗北者と感じてしまう情況にあったことでしょう。西南戦争などは、まさにその象徴的戦いでした。
実は、アメリカの南北戦争の後にも、読み書きや計算も出来ない黒人奴隷が、いきなり厳しい資本主義の競争社会に放り出されたのですね。ゆえに解放後は、大多数が奴隷だった時よりも、むしろもっと過酷な人生を送ったというのがアメリカの黒歴史です。
それと同じで、論語でいう「君子」を実践していた大方の日本の士族の中にも、岩崎弥太郎のように「戦争は儲かる」と気づき、近江商人に見下されるような「小人」、言い換えると健全な道徳と精神性を無視した商売人の台頭も、日本を戦争へと導く源泉でした。
日本の文明開化も南北戦争後の黒歴史も、道徳と精神性を無視した形で進められ、結果として両国ともに軍産複合体という人類にとって最悪のモデルを作ってしまいました・・・。
『ばけばけ』の主人公である小泉八雲が、黒人女性と結婚した結果、職を失ったように、人種差別も苛烈でしたね。まさに19世紀のアメリカは、明らかに「君子」を目指す『独立宣言』と『憲法修正第一条』に反し、自己矛盾に陥っていた世相を知ることができます。
誰であれ、聖書(欽定英訳聖書:485)を左脳で理解している限り、「小人」のままゆえに悲劇は起き続けます。一方、例えば私の大好きな作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、イエス・キリストのみを信じ続け「君子」となり、イエスの4つの福音書からのエピソードを多用していました。彼の作品は530という高い『愛』のレベルで較正/計測されます。
トランプ大統領も、バッハ同様「君子」である証拠に「私は『Jesus(イエス・キリスト)』を信じる無宗派のキリスト教徒だ」と、日頃から発言しています。
上辺だけの親切と、こころの底からの親切の違いは、作り話の聖書を強制する信仰に信を置く「小人」なのか、スピリチュアルの真実を語るイエス・キリストに信仰を置く「君子」なのかの違いと同じです。
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