『座して待つ。』
しかし「50年間、座り続けても何も起きません。」とホーキンズ博士はいいます。
あなたは、「人は、この世界の経験を経験するためにいます」と博士の言葉の通り、自身の積極的意図が、災厄の際になければ、同じ経験を何回でもさせられることを、忘れてはいけません。
あなたは、あなた自身『経験をする』というスピリチュアル・ワークをせねばなりません。それはあなたが、あなた自身で、その災厄の際に起きるこころの内側のネガティブなエネルギーを受け止め感じきらねば、その経験を経験し終えたことにならないのですよ。
すなわち、ストア派の「自然に従うこと」や、道教の「ヤナギの如く生きる」のように、「災厄」の対処の方法は、それでいいにしても、その経験の経験方法について、ただ災厄を「座して過ぎ去るのを待つ」のみでは、同じ災厄が、あなたの人生で起き続けます。
キリスト教会の『贖罪』という概念は、ニケア会議で度重なるローマ帝国の災厄を、ストア派の自虐的人生観から「自分は不道徳だから災厄が起きる」という発想から、『人として生まれたのは罪があるため』へと誤った解釈を生み出してしまいました。
『貧しい人々は幸いかな』の後に、イエスは『天の国は、その人達のものである』と続けます。しかし虚偽の『三位一体』論と『原罪』論によって、ルカの福音にある『貧しい人々は幸いかな』の解釈が、歪曲されたのは明らかでした。
ところで、マタイの福音は、ルカの福音とは異なり『心の貧しい人々は幸いかな』とあります。明らかに解釈を歪曲していているものの、概してキリスト教会は、マタイの福音を採用しています。そのため一般的なキリスト教会の解釈は、概ね次のようなものです。
「『心の貧しい人になろうと努力せよ』と求められているのではありません。『私達はもともと心の貧しい者』でした。そのことを認めて、その私達に、主イエスによる十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さるのです。私達は、その恵みに寄り添い、祈り、感謝し、頼ることで、喜んで生きてゆくこと、それが私達の信仰による生活の基本です。」
正しい解釈は、「その災厄でスピリチュアルの『無智』を『叡智』に変える機会を得たこと」です。災厄に窮していた人々に対するイエス・キリストの『貧しい人々は幸いかな』とは、災厄が人をスピリチュアルの真実に気づく機会を与えるために起きるという教えです。
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