mixiユーザー(id:12302305)

2025年06月10日12:45

26 view

最近の外国人は・・・

■白鵬翔氏が会見「協会の中ではなく外の立場から相撲の発展に力注ぐことが良いと判断」今後は「相撲を世界に広めていく活動」
(TBS NEWS DIG - 06月09日 12:58)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=266&from=diary&id=8343287
どうか知らないけど、白鳳もそうだが朝青竜も取り口がそもそも嫌い。「相撲とは!」と偉そうなことを言うほど見てはいないが昔は見ていた。なぜか?面白かったから。

しかももっと昔の相撲は更に面白かった。
知らんけども昭和30、40年代はエンターテインメントではないか?というような取り組みもあった。吊り、吊られみたいにしながら土俵を割りそうで割らない。散々、ハラハラドキドキをやりながら勝負がつく。
これはヤラセであっても面白い。最後の5日が勝負で後は取ったり取られたり。そういうインチキが良いとは言わないがプロレスのようにある意味真剣勝負でなく見世物としての要素があってもいいのではないか?と思う。
それがその当時の相撲の感じ。

それが昭和も終わり頃から平成の中盤までは「本気の勝負」となった。千代の富士が馴れ合いのようなことをやらなかったから自然と勝負が全部真剣勝負になっていった。日本人が主役でやっているうちはそれでもよかったし、その当時の外国人力士も日本の文化や習慣を尊重しなるべくそれに沿うようにしていた。

それが貴乃花や曙のような横綱の活躍を生み、舞の海のような小柄な力士が個性的な勝負を見せる面白さもあった。このような時代が終わった後、押し寄せたのがモンゴルだ。
彼らが全部悪いとは言わないが、横綱相撲を期待している通にとっては乏しい存在でしかない。言われているようにかちあげとか張手は横綱のすることではないという相撲の暗黙の了解を守らず、価値を重ね連勝しても「凄い」とは全く思えなかった。

昔の横綱がしなかったと言われればしただろうが、毎度おなじみではなかった。横綱同士の勝負なら少しはやったかもしれないがあまり記憶にない。
それを彼らは殆ど暴力に近いようなことをやって勝っていた。
そんなものを毎日見せられて楽しいはずがない。
若貴時代を知っている人なら分かると思うがあの時代が一番面白かった。

このようなことになったのはなぜか?

相撲を義務教育で教えなくなったからだ。フンドシが恥ずかしいなら生尻を出さずにやる方法もあっただろうと思うがそういう思考はしなかった。

ケンカの仲裁も相撲でやるというのは昔はあったがそういうことも無くなった。けがをせずに勝負をつけるなら殴り合いより相撲の方が良い。私たちの時代ではそういう先生もいた。相撲と言うものが祭りからも外され、文化的にも習慣的にも遠い存在となってしまったし、見た目の悪さも相まってよほどのことがない限り相撲に行こうという人が減った。

それに相撲をやったとしても「その後の人生」は「自己責任」なので世間をあまり知らないのに誰も助けてくれない。飲食店の出店の手伝いをする人がいても中には稀にその筋の人が居たりして関わってしまってその後の人生が台無しになった人もいる。

相撲の普及と言うのならまずは日本の中で普及させないといけない。

白鳳が言う「国際化」は中から変えられないから柔道のように外からという考えのようだがその柔道も国際化して良くなったかと言えば「?」だ。投げられた後に背中を浮かせて「一本ではないよ」みたいな姑息なことをやるし、点数稼いだら後は逃げに回るようなつまらないこともやる。そもそも日本人のように正々堂々とか正直とかが無いのが外国人なのでどうにかして誤魔化す、見ていなければ不正を働くという意識が日本より強いから相撲も柔道も国際化は難しい。そうやって国際化されたものはもはや柔道ではなく「ZYUDO」であり、「SUMO」である。
剣道もそうだが、国際化するとやっぱり「KENDO」になるから清廉潔白感が失われる。
曖昧なものだから何とも言えないが、ただ勝負にこだわるものを「道」とは言わない。

私は事あるごとに言ってきたが外国で言う対戦は勝負であり、決着である。
しかし、日本の場合昔から「試合」だ。「試し合う」の中身は自分を磨いた結果を相手を通して検証することであり、相手を負かすことが主目的ではない。あくまでも自分を磨くことが主目的だから「試合」「試会う」「試し合う」わけだ。
私はこの言葉が好きだ。相手に勝つかどうかということは目先のことである。本来自分の人生をどうとらえるかという事は自己満足との戦いでもあるが自分を見つめ、自分を磨き、人生をやり切った、生き切ったことをゴールとする私にとっては高尚で高い意識だという認識だ。

それは修行とよく言われるが剣士の道も修行と称されるように仏門の一部のようなものとして見られる。それは勝負ではなく自己の研鑽であり、あくまでも自分を深く見つめることである。それこそが「道」であろうと思う。

それを考えると今のスポーツは勝負にのみ目が向けられているが外野はそれで良いと思うが当事者がそれに終始したのでは行けないと思う。大谷はまさに「道」の人であり、彼の生き方を見ていると(イチローもだが)侍のようである。
自分を磨くことに深くエネルギーを費やし続ける。結果が凄いのは分かるが「道」を究める人の生き方としての凄さも見ている。

確かに勝敗がギャランティーも決めていくものであるがそれを目指すものではない。結果として高くなったということでありやはりこのような日本のアスリートの背景にある多くは勝負もあるが自分を磨くことの美学だろう。

そしてそれは勝負にも表れ、美しさとなる。忘れられないのは貴乃花の終盤の武蔵丸との一戦だ。あの形相は「道」を究めた人の顔であり人々の心に残る美しさだ。
相撲が魅力を取り戻すにはそういうところから考え直さないといけないだろう。白鳳にもいいたいことはあるだろうし、相撲協会の問題もある。しかし、現役時代の振る舞いがやはり世間が全推ししてくれない何かがあるのではないか?と思う。弟子の暴力沙汰だから本人が処分されるべきで親方がそこまで言われるのはどうかと思うがやはり「道」の姿が見えないものには見えない力は働かないと思うのである。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年06月>
日 月 火 水 木 金 土
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

最近の日記