夢中説夢・・・。
「夢の中で夢を説く」と、そのように悟りの世界を表現した道元禅師(計測値720)。
「煩悩を超えたところ」と、そのように悟りの世界を表現した弘法大師空海(800)。
西田幾多郎の教え子の上田閑照は、スピリチュアルの真実の世界を「非神秘主義」とよび、人類にとって、決して別の世界ではないことを強調していました。
彼は、京都大学で共に禅宗と『神性の突破』と説いたマイスター・エックハルト(740)を研究していた柳田 聖山 と共に、中世の中国の禅僧によって人類で初めてエゴ(小文字のsで始まるself/自我/小さな自己)を特定した『十牛図』に関する解説書を書いています。
エゴ(煩悩:五蘊)を超越した悟りの状態に至る状況について次のように述べられています。
「家に帰りつけば、牛(エゴ)は無用となる。牛は、人を家に運ぶために、ことさらに途中にいたのである。牛は教法である。『十牛図』は、牛に例えた教法であった。家に帰りつけば、牛が姿を消すのは当然である。『十牛図』のねらいは、むしろその次にある。
『金剛経』に、有名な筏(いかだ)の例えがある。『如来はつねに説かれた。修行者よ、我が説法は筏のたとえごときものだと知れ。教法さえすてねばならぬ。まして教法ならぬものをや。』川を渡るには、筏が必要である。わたってしまえば筏はいらない。如来は、己の説法を、すでにそんな筏にたとえていた。例えば、古いスッタニパータ第21偈に、次のような言葉がある。『わが筏はすでに組まれて、よくつくられている。激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏は必要ない。』」(『十牛図』ちくま学芸文庫、1992年、237頁)
『十牛図』の牛も、『金剛経』の筏も、エゴを指しています。道元は、現実ではない世界を表現するために『夢』に例え、空海はストレートにエゴを煩悩に例えた訳です。
質問:何処に、発見されるべきこころの外側の事実から離れて真実性があるのでしょうか?
答え:あらゆる真理は、主観性であるという非常に重要な声明を受け入れることで始めましょう。そのようなものは、全く存在していない為、客体の真理(客観的真実)を探し求めることに、人生を無駄に使はないようにしましょう。実際にもしそれがなされていたならば、純粋に主観的な悟りの経験を除き、真理は見つけることは出来ません。真理は主観的に経験される以上、存在しているということが出来るものなど、何もありません。見かけ上の純粋に客観的な物質世界でさえ、もしもそれが存在していたならば、それについて人の主観的感覚の経験が理由で、ただあると言うことが出来るに過ぎませでした。最も狂信的物質主義者は、最後には、信頼出来る状態の権威を主観的感覚にもたらされることで、ただそれが自分達自身のものである主観的認識に過ぎないという事実と共にゆき詰まらされます。
質問:客観的真実と、主観的真実性との間の違いはないのでしょうか?
答え:あらゆる真実性は主観性です。それぞれの他の人は、二元性に基づく幻影です。主観/主体と客観/客体は、ひとつで同じものですが、ただ異なる知覚のポイントから見た異なる描写です。真実性は、知覚、期間、描写、形のあるもの、言い換えると測定出来るものに基づきません。あらゆるそのような属性は、それのまさにその本質、一時的な、恣意的な、制限された、幻影によるということで、そのため二元性による知覚そのものの描写です。
質問:偉大な師達とその教えの価値とは、どのようなものでしょうか?
答え:その贈り物は、情報、事実、あるいは叡智に限りませんし、師達と教えが発するものからの意識のレベルやパワーがあります。偉大なパワーは、コンテクストの純粋さによって支えられます。多くの教えの有効性は、それらが教えられた際のコンテクスト内の誤りによって破壊されています。ゆえにそれらの意義が不明瞭になり、あるいは歪められてきました。いくつかの宗教、神学上の教義、あるいは観点の立ち位置の名の下で、人類の関係した恐ろしい、ぞっとするような行為を歴史的に繰り返されるパターンへと、導かれる理由が他にあるでしょうか?それぞれの人類の犯罪は、権力、名声、富、および他者を支配することを探し求める人々により、‘聖書からの引用’のため、真理であると主張され、いくつかの歪曲された声明によって言い訳がなされ、また合理化されてきました。教義は真理に見せかけて、敬虔に神聖らしく見せかけ、すると無慈悲で恐ろしい死に対し傲慢に文明全体を導くことで大量虐殺をもたらせます。そのよう帝国のすべてが塵と化し消え去ります。
以上は、『The Eye of the I: From Which Nothing Is Hidden』233頁より引用
スピリチュアルの『勇気』とは、最終的に、あらゆるものを神に委ねる。あなた自身のあらゆるものを譲り渡すことであって、言い換えると自分を捨てることとお分かりいただけるでしょう。
その第一歩こそ、利他行為に専心することなのですよ。
その行為を容易にするのが、あなた自身に「これは最高善に値するのか」を常に自問し続ける『勇気』を持つことですね。
それが、エゴを利用し、エゴを超越する唯一の方法です。
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