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2025年03月07日03:31

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カエサルのものはカエサルへ

「神のものは神に返し、カエサルのものはカエサルに返しなさい」

これは、パレスティナ一帯を支配していたローマ帝国がユダヤに重税を課した際、「払いたくない」と訴えるユダヤの民へのイエス・キリストの回答でした。

個人的に正確な意味を、私は「神のものは神に戻し、カエサルのものはカエサルに(税として)支払いなさい」という訳のほうがふさわしいように思っていますが、まあ韻をふめなくなるので・・・。

これは、例えば、何か法を巧みにすり抜け得たような利益についてもいえることです。

法を巧みにすり抜けて得たような利益を、あなたは何に使うつもりでしょう?

もしもあなたは、そのような『濡れ手で粟』のような利益を、自分の欲望を満たすために使ってしまうなら、その一連の流れのすべてにネガティブなカルマを積み上げてしまう一方で、そこで得た利益を他者や社会のために還元するなら、ネガティブなカルマを大方取り戻せるでしょう。

お金の活かし方は、やはり『共栄共存』に基づいたものでなければなりません。

やはりお金を自分のためではなく、他者のために使うというのは、そう簡単なことではないものの、その違いは、スピリチュアルにとって重大な違いであることに気づかねばなりません。

意識レベル200未満は、「何を持つか」です。ゆえに『濡れ手で粟』のような利益は、例えば銀座で、栄で、道頓堀で散財して、あっという間になくなってしまうような話は、よく聞くものです。

大河ドラマ『べらぼう』の第3話で中村隼人が演じるのは、後に火付け盗賊改めで「鬼平」と恐れられる長谷川平蔵宣以が、まさにそのような役柄で登場します。

『べらぼう』での設定によると、父親から相続した財産の大半を吉原で使いきってしまったというもの。

旗本の家で遊び方を知らずに育ったボンボンの陥る、人生の挫折が描かれています。

勿論、彼の場合、後に世の為に大いに働くわけですから、吉原での散財は、大きな教訓になっていると言えます。

NHKのインタビュー記事では、次のように述べています。

「べらぼう」の平蔵は火付盗賊改方として名をはせる前、“本所の銕(てつ)”と呼ばれていた青年時代からの登場です。よく知られているカッコいい平蔵ではなくボンボン育ちの遊び人。かなり3枚目でコメディー要素が強いのですが、のちの姿との落差をつける意味でもコミカルで余白や隙を感じさせる男として演じたいですね。

平蔵は遊び方を知らないのにお金だけ持っているから、吉原でいいようにカモにされてしまう。プライドが高くて、自分では着物や髪型が決まっていると思い込んでいるんです(笑)。結局、史実にもあるように父親が残した財産をすべて使い切ってしまうという隙だらけな人物ですが、そんなおちゃめでコミカルな平蔵はこれまで誰もやっていない。役者としてやりがいがあります。

「何を持つか」で失敗し、平蔵は本来の武士として人々の為に仕事をする、すなわち「何をするか」へと目を転じることになります。

史実は、平蔵が26歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐと同時に吉原通いをやめたとされています。

彼の石高は400石余りで、幕臣としてはちょうど中間層でした。決して『べらぼう』で描かれているような豪遊の出来る収入などなかったはずですね。

まあ、興ざめするような蘊蓄話はここまでにします。

史実のように、江戸時代に『家』を継ぐ家長は、実に責任が重く跡取りもそれなりの覚悟で臨んでいたことが分かるでしょう。

いわゆる名家に生まれるというのは、カルマであるとホーキンズ博士は述べています。統計的にもその家が、医師、司法関係者や、学者を輩出している家は、そのような知的な仕事に就く確率は、そうではない家庭で育った場合と比較すると、日本においては、およそ5倍の確率だとのこと。

この統計から見えてくる現実からも、そういった名家に生まれたからには、誰であれノーブレス・オブリージュを持つことの重要性をお分かりいただけるでしょう。それこそが「神のものは神に返し、カエサルのものはカエサルに返しなさい」の実践ですよ。

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