■被告、無罪に反応なく=神戸5人殺傷、遺族「絶望した」
(時事通信社 - 11月05日 07:31)
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多くの人が、被告人に責任能力がないことを理由とする無罪はおかしいと言っている。その気持ちはすごくわかる。
でも、それに対してあえて問題提起してみたい。
そもそも、刑罰は、行為者に対する非難だ。刑法は、国民が最低限守るべき道徳などと言われている。この最低限守るべき道徳を「法律」という形で国民に示したのが刑法に代表される刑罰法規だ。そして、刑罰法規を破った人を非難する手段が刑罰だ。
刑罰法規の名宛人は、やってはいけない行為だとわかっており、かつ、それに従って行動できる人だ。そうでない人に刑罰という名の非難を加えるのは無意味だからだ。やってはいけない行為だとわかり、かつ、それに従って行為を統御できる能力を責任能力という。やってはいけない行為だとわからないか、又は、わかってもそれに従って行為を統御する能力のない人は、責任無能力者とされ、刑罰を科すことはできない。
起きた結果の重大性や被害者遺族の無念さなどと責任能力はリンクさせてはならないと思う。それが許されると裁判官の恣意的な判断を許すことになり到底「公平な裁判」とは言えなくなるだろうと思う。
もちろん、被害者遺族の救済は必要だ。そのための制度は存在する。でも、まだまだ不十分だから、今後はさらなるきめ細かで、かつ、充実した対応ができるように改善する必要はある。
加害者、被害者の対立や得失というわかり易い図式の中で国家刑罰制度を論じたら犯罪者に厳しい論調に話が収斂するのは目に見えている。そうではなくて、国家刑罰制度のあり方は、国法制度全体を俯瞰して何があるべき適正な制度なのかという観点から論ずるべきであると思う。
そういう意味で言えば、国民が自分自身を守るためだけではなく、国民に議論のための前提知識を得させるために、高校段階で、政治経済で学ぶ憲法以外に法学概論的な科目を設けて、民事刑事の基本的な知識を身につけさせるべきであると思う。
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