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2019年09月13日15:34

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『女性百寿者の健康長寿名言』


http://www.maesaka-toshiyuki.com/longlife/2334.html

●蟹江ぎん108歳(1892年8月1日〜2001年2月28日)ギネス長寿姉妹 
長寿の双子姉妹「きんさんぎんさん」の妹。100歳になっても毎朝15分ほどの散歩を励行、自宅二階にある仏壇まで階段を昇り降りした。カレイ、ヒラメなどの白身魚が大好物。何にでも興味と関心を示した。「人間、大事なのは気力ですよ。自分から何かをする意欲を持つこと」が長寿の秘訣。

●蟹江(成田)107歳(1892年8月1日〜2000年1月23日)
「きんさんぎんさん」の姉。90歳代で軽い認知症を患っていたが、元気な妹に叱咤激励されて認知症と運動不足を克服、全国的な人気者に。まぐろの刺身と鰻の蒲焼が大好物でほぼ毎日食した。妹に先立たれてから元気を無くす。「悲しいことは考えんほうがええよ。楽しいことを夢見ることだよ」。

<2人の百歳名言>
�� 「よく笑う人間は長生きする」『一笑一若』「一怒一老」がモットー・。
�� 悲しいことや辛いことをいつまでも引きづらない。クヨクヨしない。
�� 「行ってみたい。会ってみたい。食べてみたい」と最後まで好奇心旺盛
�� 『長生きして楽しみたい』と生きる情熱が満点。
�� 大家族で、コミュニケーションがありみんなから好かれた。世界中からも。
�� 死ぬまで勉強。百歳を過ぎてから外国の通信社が取材に訪れるので英語を勉強した。脳はいきいきと活性化する。
�� 足腰が丈夫。百歳になっても毎朝夕、二階にある仏壇にまで自力で上り、拝むの日課。散歩も欠かさなかった。姉妹でライバル意識をもって頑張った。
�� 食事は伝統的な日本食中心で腹八分。白身魚、マグロなどのサシミやウナギの蒲焼を好んだ。
�� 人間、大事なのは、気力ですよ。自分から、何かをする意欲を持つことだがね。
�� 旺盛な好奇心とチャレンジ精神で、百歳越えても脳神経は若いままだった。



●島津久子106歳(1898年08月08日〜2005年5月15日)
 昭和天皇の五女貴子さんの義母。山階鳥類研究所理事長島津久永〈ひさなが〉さんの母。保護司として長く活動し、日本更生保護女性連盟名誉会長。エッセイストとしても知られ、著書に「梅のしるしと」「星に花に愛」「深山に白く」などがある。



●小倉遊亀105歳(1895年3月1日〜2000年7月23日)
女流日本画家。日本美術院の画家安田靱彦の門を叩き、岡倉天心、横山大観らの先輩後輩と深い絆を結ぶ。70歳代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代では「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作が制作された。上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章。

『老いて輝く。60代までは修業、70代でデビュー、百歳現役』

女流画家の第一人者である。70歳代で『径』『舞妓』『姉妹』などの代表作を発表、八十代で『天武天皇』などの歴史肖像画の代表作を制作した。
50代はまさに画家としての基礎体力作り、精進に費やした日々であり、自身、人生で最も充実したのは70歳代であり、80代でも衰えることがなかった。
情熱さえあればれば年齢の壁など乗り越えられることを身をもって示した。
90代半ばで体調を崩してから、絵筆を執らなくなった。居間に座ってぼんやり庭を眺める日々。ある日、ハッと気づいた。「梅は何ひとつ怠けないで、一生懸命生きている。私も怠けていてはいけない」と、百一歳で再び絵筆を握った。
それからは身近にある花木や果物を好んで描くようになる。「物みな仏」であり、自分は生かされているという謙虚な気持ちを片時も忘れなかった。普通に生きることの難しさを知ってから、普通に生き完美しきや素晴らしさがしみじみと描けるようになったのである。
「何も持たぬと嘆く人でも、天地の恵みは項戴しているではないか」

89歳の時に「生きているっていうことは、昨日の自分に一歩つけ加えて、今日は何か一つ新しいものがなくちゃならないと思う。だから、勉強は怠れないですね。こっちの目、レンズが死んだら駄目です。いつも磨いておかないと」(『小倉遊亀画室のうちそと』読売新聞社/小川津娘子共著)

「絵は一生の大事業である。思いつきや、面白さだけで出来るものではない。片時も心をはずすなである。時間を大切にしなくちゃプロにはなれない」(1973年某月某日、日記)(『画室の中から 続』中央公論美術出版)。
「生きるということは、人さまのために己れを捨てることである。つまり、没我の精神とは愛にはかならない。生きるとは愛の実行にはかならない」(同書)



●小林ハル105歳(1900年1月24日〜2005年4月25日、)
最後の長岡瞽女。生後3ヶ月で白内障を患い失明。5歳に瞽女として入門。筆舌に尽くしがたい過酷な荒修行と旅放浪が、強靭な肉体と精神力を培うことになる。晩年は養護老人ホームで瞽女唄全曲録音の作業に携わる。無形文化財、黄綬褒章、第36回吉川英治文化賞を受賞。



●加藤シヅエ104歳(1897年3月2日〜2001年12月22日)(婦人運動家,政治家
日本の女性解放運動家。日本初の女性代議士。日本産児調節婦人連盟、日本家族計画連盟、家族計画国際協力財団の会長などを歴任。戦後初の衆議院総選挙で婦人として初の当選を果たす。「1日に10回感動」し「昼寝は厳禁」。うがいと10日に3合の牛乳を飲むことが長寿の秘訣たった。

「奇跡の人」とは評論家の樋口恵子さんの批評だ。裕福な家庭に生まれ、男爵家に嫁ぎながら、夫の赴任先の炭坑で極貧の女性たちに接して産児調節運動へ。産めよ増やせよの時代に避妊具・薬を輸入して配り、警察に勾留。戦時下にも労働運動家、加藤勘十さんとの愛を貫き、離婚、再婚、出産。無事生き延びて女性初の国会議員となり、国連人口賞など数々の賞に輝く〜。しかし、「奇跡」の連続のような人生の陰には、透徹した理性と情報力があった。
 
敗戦直前の空襲が相次ぐ中、48歳で娘の加藤タキさんを生んだ。「まもなく戦争は終わり、女は忙しくなる。それなら今しかないと、あなたを産んだ」。

性を直視し、体の自己管理こそが自立の基礎と見抜いて活動した人ならではの家族計画だった。98歳という高齢で、家族計画国際協力財団の長に就任して世間を驚かせた。
情報収集と発信は100歳を超えても変わらなかった。がんで舌の1部を切り取った後もベッドの上から発言を続け、自力で言語能力を取り戻した。多様なメディアに目を通し、「頑張っている人」には無名でも男女問わず、励ましの一筆を送った。「私の仕事は人間開発」と笑っていた。
「男女平等は与えられたものではない。日本の女性の戦前からの地道な活動のたまもの」と言い最期の言葉は「みんなに愛してもらって幸せです」(朝日新聞)

百歳名言� 悵貽�に10回は感謝するの。感謝は感動、健康、幸せの源なのよ』。
一日の始まりは健康な体を授けてくれた両親.楽しい思い出を残してくれた亡き夫に感謝、遺影に手を合わせる。食べ物が出てきたら作ってくれた人々に感謝。こんな老人に会ってくれる人々感謝、感謝と言うわけ。
「感謝は感動を呼び、頭脳は感動を受け止めて肉体に刺激を与える」

百歳名言�◆崔訖欧聾袈悄�
「昼寝というのは夜の睡眠と違い、脳をダラけさせてしまうような気がする。その間は脳を刺激していないから、脳細胞の衰えを促進するようなものだと自分なりに考えている」

百歳名言��「牛乳を必ず一日540cc飲む」「一日に何度となくうがいをする」 
「大切なカルシウム源である牛乳を必ず一日540cc飲む」。喉、声帯を酷使するような場合は「一日に何度となくうがいをする」。うがいによって耳、鼻、喉が清潔に保たれ、風邪を遠ざけるばかりか、耳が遠くなるようなこともない。

百歳名言�ぁ嵜箸世靴覆澆麓�分の心を反映する」
服装や髪は乱れて顔を化粧せず、だらしなくて見苦しい格好のときは、きれいでまっすぐな心を保つことはできません。身だしなみの感覚を磨くには一流のものを見て目を肥やせ」

百歳名言�ぁ崢浩犬�するためには時代の空気を吸う」
過去の思い出ばかりに浸っているのではなく、今という時代、人間を理解することが大切。そうしなければ頑固になり、結局は心を閉じて社会との接点も断ち切ってしまう。

百歳名言�ァ屮縫紂璽垢嚢馥盂阿僚侏荵�をチェックする」
新聞、テレビ、メディアでニュースで国内外の出来事をチェックする。「知りたい、知りたいと追いかけていくうち、それが面白さに変わっていく。年をとらないということにつながっていくの」



●中村テル(女性登山家) 104歳(1904年−2009年5月3日)
百歳名言『本気でやれば、何でもできる』

神奈川県横須賀市在住。小学生時代から英語を習い始め、英語教育で知られた桜井女塾に入学、英文タイプも習得して、卒業後は商事会社に就職。10代の頃から本格的な登山を始め、女性で初めて冬の富士に登る。戦後は同時通訳等の仕事に従事。51歳の時下着の研究でニューヨークに2年間留学、帰国後はファッションアドバイザーとして活躍する。57歳の時女性5人のニュージーランド親善隊の隊長。その後も何回か海外登山。85歳の時日本からの留学生を世話するため、オーストラリアに単身移住。95歳で帰国する。日本山岳会名誉会員。



●木村霊山尼104歳(1882.10.10〜1987.05.01 )
本名マツ。「生んでもらっただけでありがたい」群馬県の前橋から母の実家・新潟県柿崎町へ連れて 来られてそのまま置いていかれた。 生活に困る年寄りや子供たちを預かり托鉢しながら生活の面倒を見続けた。庵寺に来た子は、みんな実の 子、お年寄りはみんな母親だと思って一緒に生活した。庵寺は季節託児所の草分けで保育園を建て、里子制度により県からも子供たちを預かった。70人もの里子を育て上げた。日本のマザー・テレサと言われる。

桐生清二『越後の慈母さま』(柏樹社)は「恵まれない子ども連を掌として70人も育ててきた尼さまが関川村に住んでいる」と聞いて霊山さんを訪ねたのは、昭和55年11月のこと。霊山さんは明治15年生まれですから、ちょうど100歳ですが、今もなお、かくしゃくとしておられ、生きてこられた道を淡々と語ってくれました。
霊山さんはやっと雨露をしのぐ庵寺で、自ら質素な衣等粗食に甘んじて托鉢しながら、葛まれない子供達や生活に困るお年寄りたちと共に生きてきました。「別にこれが苦労だなんていうことは1つもなかった。みんなあたりまえだと思ってきた……」と霊山さんは回想しています。



●飯田深雪103歳(1903年10月9日〜2007年7月4日)
料理研究家・アートフラワー創始者。終戦後間もなく自宅で知人の子女等を対象に料理の講習を開始。同時に造花の講習も始め、自らの造花をアートフラワーと命名する。勲五等宝冠章受章。シラク・パリ市長から「パリ栄誉章」を贈られる。著書として129冊、随筆として6冊を著す。

百歳名言� 嵋萋�を創造する気持ちで過ごす生活に飽きはこない」

百歳名言�◆屬垢戮討狼Г蠅砲茲辰突燭┐蕕譴紳腓�な恵みです」

百歳名言��「聖書との出会いが生きる希望と勇気をもたらした。祈りなくして
は一日もなり行きません」。

百歳名言�ぁ屬匹Δ垢譴仄�分豊の心の満足が得られるのかと検討したりするの
はなく、自分は今、何を果たすべきかを第一に考え実行するとき、
不思議に心に充実感と幸福がみなぎります。

百歳名言�ァ嶌嚢發離泪福爾呂泙錣蠅凌佑燭舛悗里△燭燭�い心づかいです」

百歳名言�Α峽鮃�的な食生活とは自分のくらす土地で育った季節の野菜や果物
を食べること」

百歳名言�─慇験曲拔�、勉強くらい人生を明るくし、人間らしい充実感で充た
してくれるものはない」

百歳名言��マナー上手は人生上手となる。マナーとは本来、その場の大勢に合
わせることなのです」

百歳名言��「生前の口ぐせは「天国は素晴らしいところ。死ぬことに何の不安
もありません」。


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