【プログラム】
1 モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219「トルコ風」
2 マーラー: 交響曲 第4番 ト長調
(アンコール)
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第2番 イ短調から 第4楽章「復讐の女神」
服部 百音(Vn)
マリン・ビストレム(Sp)
ローレンス・レネス(指揮)
NHK交響楽団(管弦楽)
2019年7月13日(土),4:00pm開演,札幌コンサートホール
ここ5週間ばかり「日記」への投稿を行っていなかった。部屋で転んで膝を痛めた結果,演奏会へ出かけることができなかったからだ。加えて,新しいCDの在庫も底をついた状態で,「日記」を書く材料に事欠く状況が続いた。先週から外出できるまでに回復したので,「日記」を再開することに。
再開後の第1弾はN響の札幌公演。この公演は,道内5都市を巡る北海道公演の最終日である。N響を聴くのは久しぶりだが,このオーケストラは驚くほど変わっていない。相も変わらず折り目正しい謹厳実直な演奏である。たしかに,技術的には個々の団員の技量は高く,アンサンブルも優れている。しかし,演奏そのものは退屈極まりない。このコンサートを聴いて,このつまらなさはオーケストラの問題というより,長年にわたり聴衆の求めに応じてきた結果ではないのかという気がしてきた。良い意味でも,悪い意味でも,この国の音楽文化をストレートに体現したオーケストラなのではなかろうか。
まず,N響の出すサウンドは硬い。あの硬過ぎる響で,爛熟した果実のようなマーラーの交響曲の退廃感を表現することは不可能なはずだ。譜面に書かれた音符をただ精確に音にすることだけに集中するような演奏は技術的には完璧であっても,聴くものの胸に迫るものは何もない。テレビ番組のナレーションを引き合いに出すと,局アナのナレーションのようで精確で聞き取り易いものの,小林薫や久米明のナレーションのような味わい深かさにかける。譜面どおりの見事な演奏であっても,マーラーの交響曲第4番を演奏することで何を表現しようとしているのか,聴衆に何を訴えたいのか皆目見当がつかないツマラナイ演奏である。清浄な「天上の生活」を描いているわけでもなく,死神が弾く俗っぽさ満点の「死の舞踏」が眼前に浮かぶわけでもない。技術的な完成度がすこぶる高い演奏ではあるが,それ以上でも,それ以下でもない。客観的で即物的なだけの面白くない演奏である。自己主張を極力抑える国民性にふさわしい演奏だ。指揮者も独唱者もN響の流儀に迎合するだけで,この国内最高峰とされるオーケストラの演奏を軌道修正する力は持ち合わせていないと見た。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲もマーラーと同じような演奏。この作品の演奏でこうした傾向を体現していたのは,ヴァイオリニストの服部百音。彼女のヴァイオリンの響きが細いのは問わないとして,この作品の演奏をつうじて,どのようなことを表現し何を訴えかけたいのか皆目見当がつかない。ただ譜面に書かれた音符どおりに,疵もなく精確無比に演奏しましたという以外にどんなメッセージもない演奏にきこえる。音楽学校では良い成績を収めることができたとしても,プロの表現者としては修行途上の演奏家でしかない。それとも彼女の価値は,音楽一家に生まれたサラブレッドだという話題性にあるのだろうか。プロとして活動するために話題性を利用してはいけないというつもりはない。そうだとしても,演奏に独自のメッセージを込められることがプロの演奏家として備えるべき最低の条件ではなかろうか。ひところ流行ったスーパーリアリズム絵画を観るような味気なさを終始味わった。
精確無比なだけで面白くも何ともないという問題は,単に演奏する側の問題では無さそうな気がしてきたのも事実。聴衆がこのような演奏が素晴らしい演奏なんだと勘違いして,長年にわたってそれを求め続けてきた結果がこれなのではないだろうか。義務教育の音楽の授業や街中の音楽教室の単純な延長線上でしかプロの音楽表現を捉えていないのではないか。事実,こうした類の演奏が絶賛されこそすれ,批判されることは少ない。演奏が終わると礼儀正しく拍手する習慣もこうした傾向を助長する上で一役買っているように思う。気に入らなければブーイングしろとまでは言わないが,拍手を控えるという選択肢で評価を伝えることもできるはずだ。そもそも,テクニックの機械的な正確性を超えた何かを表現するために演奏家は修行に励むのだろうし,聴衆はそれを求めて演奏会場に足を運ぶのではないか。お行儀が良いだけでは,だれも成長しないし,音楽文化の発展も望めない。
このような辛口な評価を下すのも,この演奏会の翌日,PMFのコンサートへ行って,彼我の音楽文化の大きな相違に突然気づいたからだ。我々の音楽観と彼らのそれとは決定的に違うことを発見した。このことについては来週書くことにする。
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