自分を満たすために何かを手に入れようという結果への執着を手放し、個人的な「ラーガー・ドヴェーシャ(好き・嫌い)」という思いを解放し、すべきことを果たして知識が定着するための心を準備する人を「カルマヨーギー(カルマヨーガを収めた人)」といいます。
そして一般的に社会の義務と権利の伴う “行い” を、知識を探求するためだけに手放す生き方を選んだ人を「サンニャーシー(出家者)」と呼びます。
完全に知識によって自分の本質が “行い手” であるという無知を取り除き、個人としての行いの動機を手放している人を、「サルヴァ・カルマ・サンニャーシー(すべての行いを手放した人)」といいます。たとえ体・心・感覚という道具が動いても、その人自身は真実に定まって動きません。
人はみな、知識の理解によって自由になる「サルヴァ・カルマ・サンニャーシー(すべての行いを手放した人)」を目指します。そのために必要なことは、「ヨーガ」によって、心をとらえる思いや疑い、欲望といた知識の定着を妨げる障害を取り除くことです。
この章では心を一つの対象に集中させ、知識を理解するための落ち着きを準備する手段として「ディヤーナ(瞑想)」が語られています。
心・感覚・肉体という道具を自分の手の内に収めることで、それらは自分にとっての最高の道具であり、最高の友となります。逆に、もしこれらの道具に引きずられてしまうようだったら、心・感覚・肉体は自分の最大の敵となります。心・感覚・肉体を自分の意のままに扱える人は喜び・痛み・暑さ・冷たさ・名声・不名誉などがあっても、心の静寂が乱れることはありません。
賢者は自分の道具を含めた世界のすべての本質を理解し、あらゆるものの源である「ブラフマン(普遍な存在)」を知ることにより、何に対しても動揺せず、悩みに引きずられることもない自由を確立しています。
この章でクリシュナは「ディヤーナ(瞑想)」の実践について話しました。具体的な実践方法として、クシャ草と布と皮で覆った座を作り、その座に座り、思考を集中し、心と感覚の活動を収め、体と頭と首を一直線に不動に保つこと。心を静め、恐怖を離し、規律正しい生活を送り、真実の知識に心を繋ぐことの大切さについて話しました。瞑想をする人はいつも適切な食事をとり、適切な睡眠をとり、極端に走らないで “ほどほど、中庸” をとるべきであることも語られます。
人の心というものは常に移り変わります。しかし賢者の心は、風のないところでは揺れることがない蝋燭の炎のように、常に流れていながらも一つの方向に定まり、揺れることも乱れることもありません。
心が瞑想の修行によって静められ、知識の理解に専心する人は瞑想する対象に、真実を見出すようになります。やがて世界のすべてに真実を見るのです。
心には動き続ける性質があります。そして様々な対象に惹きつけられます。ですから瞑想中、心が何かに惹かれそうになっても、意志の力で瞑想の対象に心を連れ戻すことが大事です。不断の努力で瞑想を続けることによって、やがて瞑想する人と瞑想の対象が一体となります。この一体感が知識の理解に最も必要であると言われます。
自分自身と世界の本質を見極めることで得る理解とは、個と全体2つは全く同じ1つの真実であるということの理解です。完全に満ちていて、何からも自由で、すべての本質である真実を理解することが人を自由にします。
次にアルジュナは、
「ヨーガに成功しなかった人はどうなってしまいますか? ヨーガをしながらも、志半ばで終わってしまった人は、得られるはずであった悟りや喜びが失われてしまうのではないか?」と聞きました。
クリシュナは、
「たとえヨーガの道から離れても、また敬虔で裕福な家族の元に生まれ、ヨーガの道は続いてゆく」といいました。
もしくは、次はヨーギーの家族の元に生まれ変わり、ヨーガに一層励めるだろといいました。どちらにしろ、ヨーガの道が途中で断たれても、再び生まれ変わり「モークシャ(自由)」への道を進むから心配はない、といいました。
クリシュナは、アルジュナに探求することを見極め、常にヨーギ―であれといいました。
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