バガヴァッド・ギーターには全部で700の詩句がありますが、長谷川澄夫訳「ギーター・サール(バガヴァッド・ギーターの神髄)」では、その中から150の詩句を集め、各題目につき別々の章から詩句を選び理解しやすいように配列しています。この150の詩句を長谷川澄夫訳のほか、田中嫺玉訳「神の詩・バガヴァッド・ギーター」、向井田みお訳「やさしく学ぶYOGA哲学」、上村勝彦「バガヴァッド・ギーター」を参考に併記します。。
<1>魂と肉体
★ギーター/2-23
(長谷川訳)
魂(アートマー)は刀で切ることもできなければ、火で焼くこともできない。魂は水で濡らせない。そして風も乾かすことはできない。
(長谷川解説)
肉体と魂は、近い関係にあるようでも、それらは全く別々のものである。肉体は物質的で無意識であるが、魂は非物質的で、そして意識そのものであう。この世に起こるいろんな現象は、肉体に影響を及ばすにはおかない。しかし、これらは魂に対しては、どんな影響も生じない。肉体に受けるどんな損害も、魂を決して傷つけることはできない。あらゆる肉体的な変化の中で、魂は常に唯一の状態で存在し続ける。自身の魂を知るには、我々の内に、始めから終わりまで、常に不変の状態でいるものを知らねばならない。
(田中訳)
どのような武器を用いても、魂を切ったり破壊(こわ)したりすることはできない。火にも焼けず、水にもぬれず、風にも干からびることはない。
(向井田訳)
武器は自分自身である存在を傷つけることはできない。火で焼くことも、水で濡らすことも、風で乾かすことも。
(上村訳)
武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。
★ギーター/2-13
(長谷川訳)
肉体に覆われた魂は、現世でこの肉体に於いて、子供時代、青年期、そして老年期を過ごして行く。そのようにして死後、魂は別の肉体に出会っていく。冷静な人(賢者)はこのことに囚われ惑わされない。
(長谷川解説)
誕生の時から、我々の肉体は絶えず変化をし続けている。しかし、我々の魂には、どんな変化も起こらない。死後、魂は新しい住処を得る.そして、その新しい肉体も、誕生し、成長し、老いるという過程を、再びくり返すことになる。魂は誕生以前から存在し、死後もまた存在し、人生のあらゆる変転の中にあっても、魂は不変の性質を保ちつづける。
四方に変転する事象を平静に見守り、そして不動の心を保っている人こそ賢者と言える。賢者は死への恐れを持たない。何故なら、彼は自分の魂が再び新しい肉体に出会えることをしっているからである。
(田中訳)
肉体をまとった魂は、幼年、青壮年を過ごし老年に達し、捨身(しゃしん=インドでは死ぬことを捨身、すなわち肉体を捨てる、と言う)して直ぐ他の体に戻るが、自性を知る魂はこの変化を平然と見る。
(向井田)
この体に住まう者は、個人が子供時代から成長し、若い時代、老いの時代と移り変わりを経ていくように、次から次へと肉体を得て通り過ぎてゆく。この点から見ても、物事の真実を知る賢い人は悲しむことがない。
(上村訳)
主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。
★ギーター/2-20
(長谷川訳)
魂は、いつ生まれるということもなければ、いつ死ぬということもない。魂は一度生じて、再び生じない、というようなものでもない。魂は誕生もない、永久のもの、時を超えており、そして常に存在するもの。肉体は滅んでも魂の死滅はない。
(長谷川解説)
誕生は、常に肉体が生じたことで、魂のことではない。死もまた、肉体に起きたことであり、魂にではない。ある肉体は一度生まれれば、それは二度と生まれない。しかし、魂は不生不滅、そしてそれは、滅びる肉体の中にあって常に不老不死である。世のあらゆる変転、即ち、全ての歴史は、悉く肉体に於いて起こることなのだ。魂や意識は歴史を超えている。
(田中訳)
魂(真実の自己=アートマン)にとっては誕生もなく死もなく、元初より存在して永遠に在りつづけ、肉体は殺され朽ち滅びるとも、かれは常住にして不壊不滅である。
(向井田)
アートマン(真我、真実)は生まれることもなければ。死ぬこともなく、ずっとそこにあり、消えたり、再び現れたりすることもない。
“存在” は生まれず、消えず、永遠である。どんな変化も受けず、いつも新しいままであり続ける。たとえ肉体が滅びても、君自身の本質が滅びることはない。
(上村訳)
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠である、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることはない。
★ギーター/2-22
(長谷川訳)
人が古い衣服を捨て、新しい衣服に着替えるように、魂も古い肉体を捨てて、新しい肉体を纏う。
(長谷川解説)
この詩句は、肉体と魂の関係を大変美しい比喩で語っている。古い衣服を捨てながらも、我々はさほど悲しみは起こらない。何故なら、我々は、それに代わる服を着れることを知っているからである。まさにこのように、もし我々がこの世での肉体が亡くなった後も、必ず新しい肉体を纏えることを信じられるなら、我々には死の恐怖もなければ、それに対して何らの悲しみも生じないであろう。同時に、ある人たちが、それぞれ違った衣装を身に着けていても、我々は、彼が誰であるかを知ることができるように、我々は様々な肉体を纏っている不変の魂を知らなければならない。
(田中訳)
人が古くなった衣服を捨てて、新しい別の衣服に着替えるように、魂は使い古した肉体を脱ぎ捨てて、次々に新しい肉体を着るのだ。
(向井田訳)
古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着るように、この肉体に宿る “存在” は、古い肉体を脱ぎ捨てて、また別の新しい服を得る。
(上村訳)
人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。
★ギーター/2-19
(長谷川訳)
この魂は、殺すと考える者、そして、殺されると思うのも、そのどちらも、真実を知らない。魂は誰かを殺すのでもなければ、また自らいつ殺されるものでもない。
(長谷川解説)
人類の歴史は、おおよそ、人が殺されたり、殺したりすることに占められている。しかし、それはすべて表面に起こり続けていることである。世界の全ての現象の背後に、ひとつの不変不動の真理がある。インド思想では一般に、全宇宙にただ一つの意識があることを認めている。世界のすべての生き物には、この意識がそれぞれに顕現している。何かの生物がこの世に生を享けることは、この意識がひとつの新しい新しい体に覆われることである。そして死後、その意識はその体に代わり、別の体を得る。このように肉体において、また物質世界に起きることは、すべて宇宙意識の中で起こっている遊戯の一部である。この遊戯の背後の深奥には、いつ誰が死ぬとか、誰が死んだいうこともない。
(田中訳)
生物が他を殺す、また殺されると思うのは、彼らが生者の実相を知らないからだ。知識ある者は自己の本体が、殺しも殺されもしないことを知っている。
(向井田訳)
自分自身の本質とは肉体でも、考えでもない。それらを支え、存在させている真実だ。
その真実のことを経典は『アートマン(真我、真実)』と呼ぶ。だから『アートマン(真我、真実)』が、殺すとか、殺される、などということはない。
自分自身を殺すとか、殺されるとか、そう考えている者は真実を知らない。だから『アートマン(真我、真実)』は殺しもしなければ、殺されることもない。
(上村訳)
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。
★ギーター/2-28
(長谷川訳)
アルジュナよ、すべての生き物たちの、始めのことを何ら知ることもなければ、またそれらの終わりについても、知ることはない。我々は、唯その中間に於いてのみ知るのだ。それ故、それらに拘わってどうして悲しむことがあろう。
(長谷川解説)
この世界と、そこでの我々の生活は、我々には全く真実のものい思われる。しかし、この世界がどうして造られ、我々がここにどうして来たのか、何も知らない。有名な米国の哲学者ヴィリアム・ジェームスも、この宇宙が出現していなければ、我々の中の誰一人として、ここにいないという可能性もある、と言っている。しかし、我々はこの世界は常にあり、我々も存在するものと思っている。また我々は、ここに僅か幾十年か前に来て、そして、幾時間後にも、ここから去っていくことを忘れている。この無知の故に、我々は自分自身に、またこの世に執着し、迷妄に陥っている。このために我々は、自分と身近な人々の、死の恐れに悩まされつづけるのである。
(田中訳)
万物はその初めにおいて色相(かたち)なく、中間の一時期に色相を表し(肉眼で見えるのは一時的現象である物質体だけ)、終わりに滅して無色相となる。この事実のどこに悲しむ理由があるか。
(向井田)
今を生きる者は、生まれる前のことや死んだ後のことはわからない。それは目で見たり、触れたり、五感で確かめることができない。生と死の間に生きる者は、飛ばされた矢が通り過ぎるように、一時的に形をもって現れているだけだ。一体そのどこに悲しむ理由があるのか?
(上村訳)
万物は、初めは顕現せず、中間に顕現し、終わりは顕現しない。ここにおいて、何の嘆きがあろうか。
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