<3>平安と幸福
★ギーター/5-22
(長谷川訳)
感覚器官とその対象によって、快楽が決まる。
それらは、結局苦しみの原因になるのだ。アルジュナよ。
始めと終わりがある。それらの快楽に賢者は耽らない。
(田中訳)
アルジュナよ。感覚的快楽は一時的なもので、終わった後に必ず悲苦を生じる――故に、覚者(ブッダ)は決してこの悲悩の源に近づかず、このような空しい快楽を喜ばない。
(向井田)
好きなものと接する感覚の喜びは、後には苦しみの元になる。感覚が経験できる喜びには始まりがあり、終わりがある。
アルジュナよ。賢者は時間と空間に限りある感覚の経験に浮かれ騒ぐこともなく、乱れることもない。
★ギーター/2-71
(長谷川訳)
すべての欲望を放棄して、無執着になって活動し、そして、無私でエゴのない者は、平安を得るだろう。
(田中訳)
物欲、肉欲をすべて放棄した人、諸々の欲望から解放された人、偽我なく、所有感をもたぬ人、このような人だけが真の平和を得る。
★ギーター/5-12
(長谷川訳)
ヨーガに安住した人は、自分の全ての仕事の成果を放棄して、確固たる平安を得る。その逆にヨーガの境地にない者は、欲望のままに仕事の成果を期待し、執着して、それに束縛されていく。
(田中訳)
ヨーガを行ずる人は全行為の結果を捨てて、純粋正真の平安境に達する。ヨーガを行じない人は働きの報果(むくい)を求めて、仕事に縛られ、絶えず不安である。
(向井田)
自分の内にも外にも広がる調和の法則に行いを捧げ、結果はすべて世界から贈られたものとして受け止め、期待と執着を手放し「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」に従う人は心に平安を得る。
一方、自分の “好き・嫌い” という思いにとらわれ、欲望を叶えるためだけに行いをし、与えられた結果に関してあれこれ考える人は心の平安を得ることができない。そして、いつまでも行いの結果の「カルマの法則(行いの結果の因果関係)」に縛られてしまう。
★ギーター/2-66
(長谷川訳)
ヨーガに安住しない人は、叡智に到達できない。そして、そんな人は、内観(バーヴァナー)の境地に至らない。内観の境地にないものは、平安を得られない。また、心が平安でない人が、どうして喜びを得ることができようか。
(田中訳)
至上者(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は、心も統御されず、知性(ブッディ)も安定せず、平安の境地は望むべくもない。平安なき所に真の幸福はない。
(向井田)
逆に穏やかでない心に、真実の知識は宿ることができない。心騒がしい人は、自分自身について深く考え、瞑想することができない。心騒がしい人は、自分自身について深く考え、瞑想することができない。心が平和に調和することなく、どうして人は自分自身の本質こそが幸せであると見極められるだろう?
★ギーター/5-21
(長谷川訳)
感覚器官と、それら快楽の対象との、外的な接触に耽溺(たんでき)しない人は、自分自身の内部に喜びを見出す。そのような人の魂は、ブラフマンと結合することができ。彼は決して滅びることのない喜びを得るだろう。
(田中訳)
解脱した人は感覚の快楽(よろこび)や外物に関心なく、常に内なる真我(アートマン)の楽しみに侵っている。真我実現の人は心を至上者(ブラフマン)に集中して、限りなき幸福を永遠に味わっている。
(向井田)
ありのままに満ちている自分自身に喜ぶ人は、自分以外の物や状況、感覚の経験に対する執着から離れている。『ブラフマン(普遍な存在)』の知識に定まる人は、衰えたり失われたり、変わることのない喜びを知る。
★ギーター/2-70
(長谷川訳)
絶えず流れ込む川の水を受け入れ、満たされながら、海は全く揺らぐことはない。そのように、心に進入する様々な欲望の後を追うことなく、それらを自然に受け入れている者は平安である。
(田中訳)
無数の河川が流れ入っても、海は泰然として不動である。様々な欲望が次々に起こっても、追わず取りあわずにいる人は平安である。
(向井田)
賢者を例えるもう一つの例がある。
海に雨が降っても、降らなくても、川が流れ込もうと、流れ込まなくなっても、海はいつも満ちていて、変わることなく水を湛えている。
同じように賢者の心は、海のように真実に溢れ満ちている。
自分自身こそが変わらずに満ちている存在であり、世界の根源であり、枯れることがないと知っている。
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