【プログラム】
1 ペンデレツキ: 広島の犠牲に寄せる哀歌
2 ショスタコーヴィチ: ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 Op.77
3 ストラヴィンスキー: バレエ音楽「春の祭典」
(アンコール)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より第3曲”アンダンテ”
アレクサンドラ・スム(ヴァイオリン独奏)
クシシュトフ・ウルバンスキ(指揮)
札幌交響楽団(管弦楽)
2019年3月16日(土),14:00開演,札幌コンサートホール
札響3月定期演奏会は現代作品が勢揃いする意欲的なプログラムだ。3作品の初演は,「広島の犠牲に寄せる哀歌」が1961年,「ヴァイオリン協奏曲第1番」が1955年,そして「春の祭典」は1913年。いくら定期演奏会とはいえ,ここまで現代音楽をならべるとは大胆極まりない。2018/2019シーズンのラインナップが公表されて以降,現代作品の傑作中の傑作を集めたこの演奏会を一日千秋の思いで待ち焦がれていた。しかし,曲目の斬新さとは打って変わって,ウルバンスキの棒はかなりマイルドな味付けである。「春の祭典」はマイルドを通り越して,超個性的な「ハルサイ」に変身。とにかく,こういう意欲に富んだ姿勢は大いに評価する。願わくば,それが聴衆の支持に繋がらんことを。
ウルバンスキは1982年生まれのポーランド出身。2015年からNDRエルプフィルの首席客演指揮者を務め,同楽団の日本ツアーにも同行。2011年のPMFの際に客演指揮者として登場した。アレクサンドラ・スムはロシア生まれのフランスの実力派ヴァイオリニスト。出演者もスラブ系なら,取り上げる作品の作者も全てスラブ系。これはただの偶然というより,前世紀の音楽の世界におけるスラブ文化のウエイトの高さの反映と見るべき。
「広島の犠牲に捧げる哀歌」は52の弦楽器(ヴァイオリン24,ヴィオラ10,チェロ10,コントラバス8)のための作品。多くの「特殊奏法,騒音的効果,微分音の集積によるトーン・クラスター」などを駆使した作品で,ペンデレツキの代表作であり,後世の作品に大きな影響を与えた。「独自のソノリティを求めて弦楽器の大胆な用法が周到に準備」され,「楽器間の微妙な音のずれ,弦楽器の特殊な奏法による打楽器的な響き,トーン・クラスター,緻密な手法による点描音楽」が斬新な音楽を作り出す。この作品は当初「8分37秒」というタイトルだったが,改訂後「52の弦楽器のための哀歌〜8分26秒」と改められ,初演時に「広島の犠牲に寄せる哀歌」と再度改められた。この作品のタイトルと微分音やトーン・クラスターというこの曲で使われた作曲技法は知っていたものの,作品を聴くのは今回が初めて。ウルバンスキと札響による演奏は,この作品の前衛的な側面が若干緩和され,角の取れた聴き易い現代作品になっていた。作品の解釈はともかく,いくらプロのオーケストラとはいえ,技術的に難しそうな作品をよくも短い期間で仕上げたものだ。しかも,指揮者は暗譜で振っている。想像していたよりもマイルドな味付けになっていたが,「特殊奏法,騒音的効果,微分音の集積によるトーン・クラスター」がどのようなもので,それらを使った狙いがどこにあるのか明瞭に分かる演奏だった。
ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は底なしのような暗さを持つ作品。1947年から48年にかけて作曲され,前衛芸術に対する揚げ足取りや統制(「ジダーノフ批判」)の最中に完成した。初演はいわゆる「雪解け」を待って1955年に,オイストラフのヴァイオリン独奏とムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによって行われた。ロシア文化と地続きの文化圏に生まれ育った人たちにとって,ただ救い難い暗さに満ちた作品という訳でもないのだろう。この作品が誕生した背景だとか,曲に込められた数々のニュアンスなどこの作品から感知できる情報は圧倒的に異なるのではなかろうか。文化的な背景云々というのは越え難い壁であるにしても,この作品をより深く聴き込んで理解する努力が足りなかったのは事実だろう。この作品がショスタコーヴィチの最高傑作の一つとされていることは分からないでもないが,その理由を具体的に挙げよと言われたとしても,そうする自信はない。ショスタコーヴィチに対するある種のコンプレックスから,準備が十分でなかった点は反省すべきだろう。演奏会の直前になって何度も聴いたがのだが,この作品が自分のものになっていなかったのは否めない。とにかく,胸の奥に鉛を詰め込まれたような圧倒的な重苦しさを残す音楽である。
アレクサンドリア・スムは,温かい音色のヴァイオリンで明晰極まりない演奏をする。救いようのないほど暗い音楽でありながら,作品のクオリティと彼女の秀でたテクニックは聴衆に伝わった。それは悪いことではないが,ショスタコーヴィチが表現しようとしたものとは何か違う別の音楽になりかねない危うさを持っている。深刻で真摯なこの作品をブルッフのヴァイオリン協奏曲のように弾いていたようにもきこえた。
この日の「ハルサイ」は,ひとことで言うなら「スローモーションのハルサイ」だった。とてもユニークで指揮者の個性があふれかえる「ハルサイ」なのだが,個人的にイメージする「ハルサイ」とは別の作品のような気がしてならなかった。「ハルサイ」の旋律的な要素を強調しようとする意図から,音の横の繋がりを重視するあまり,この作品が本来持っている音の縦の連なりがどこかへ行ってしまったように感じられる。太古を思わせる逞しい響きや目まぐるしく変化する強烈なリズムは後景に退く。そして,旋律を克明過ぎるほど克明に描くため,「ハルサイ」のスローモーションを見せられているような錯覚を起こす。ウルバンスキの解釈には,いわゆる原始主義なるものは一切含まれていない。フランスのバレエ・ダンサーが優雅に体をくねらせて踊る光景が目に浮かぶだけである。おそらく,「ハルサイ」にもメロディーがあることを強調したかったのであろう。そのことに異議はなく,この作品のメロディーはなかなか捨てたものではないことは十分に理解しているつもりだ。だが,ロシアの大地が唐突にパリの瀟洒なオペラ劇場の舞台にすり替わってしまうことには違和感以上のものを感じる。さらに,数小節ごとに拍子が変わる変拍子というこの作品の特徴も,消え去ったわけではないにしろ,背景のその奥まで後退した感は否めない。旋律を強調する目的があったにせよ,ここまで作品を歪めることが果たして許されるのだろうか。「ハルサイ」に関してもう一言付け加えるなら,その責任が奏者にあるのか指揮者にあるのかは別にしても,一部の管楽器のソロが興を削ぎかねない有り様だったのは残念だ。大編成を要するこの曲の演奏には,多くのエキストラが参加していて,息の合った演奏をするのは短時日では難しいことも分からなくはない。練習時間が足りなかったためなのか,オーケストラの限界なのか,はたまた指揮者の責任なのか詳らかではないが,たとえ数は少なくとも,ソロが不調だったのは慚愧に堪えない。
それはそれとして,1月のバーメルト,2月のオール・ラヴェル・プログラム,3月の現代音楽特集と,札響の意欲的な姿勢がこのところ鮮明だ。金曜日の夜公演の模様やクチコミが新しい聴衆やリピーターを引き寄せているのだろう。これが好循環を生んで新たなファンの獲得に繋がることを願っている。
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