ある高校で二人の高校生が東大をめざして一所懸命に勉強をしていました。AくんとBくんにしておきましょう。
Aくんは実力が抜群で、合格まちがいなしと言われていました。Bくんは今年は無理だろうといわれていた。ところが結果は、そのBくんが通って、Aくんが落ちました。それでAくんはがっくりして、風邪も引いて寝込んでしまいました。そこにBくんが訪ねて来ると、お母さんとしては、おおかた自慢に来たんだろうと思い、「帰ってください」と言って門前払いをくらわせました。
ところがBくんは、「どうしても言いたいことがあるんだ」と言って、強引に上がり込んできました。そして、Aくんが寝ているところに座って、こう言ったんです。
「君と二人で東大をめざして一所懸命やってきた。二人いっしょに合格できたらどれだけ嬉しかったか・・・・・。それなのに、一人先に通ってごめんね」
Bくんは、それだけ言って、涙を流して帰って行きました。
そのことばを聞いたとき、Aくんははっと気がつきました。
<もしも、ぼくが東大に通ってBくんが落ちたとしたら、ぼくはこんなやさしいことを彼に言えただろうか・・・・・。“ぼくが猛勉強したから、通ったんだ。Bくんも通りたかたったら、ぼくみたいに猛勉強すればいいんだ”と考えたんじゃないだろうか。
ほとけさまは、きっとぼくに、一年浪人して、その間しっかりと「やさしさ」を学びなさいと言っておられるんだ。一年浪人するのは、その意味では、ほとけさまのおはからいなんだ。きっといいことなんだ!>
人間の物差しを使うかぎり、受験に失敗したAくんは不幸です。けれども、Aくんはほとけさまの物差しを得たのです。ほとけさまの物差しによって、「ほとけのこころ」がわかったのです。
合格することがいいことかどうか、わかりません。落ちたことによって、友だちからすばらしいことばを聞くことができた。それがほとけさまの救いです。大学に合格させることが救いではないのです。<あなたの願いは叶いますよ。大学合格できますよ。金持ちになりますよ。病気が治りますよ>というのはインチキ宗教なのです。
病気になったときには、病気でよかった。大学を落ちれば、落ちてよかったということが「諸法実相」です。一年早く通っても同級生に意地の悪い者がいって、いじめられるかもしれない。一年遅れたために、すばらしい恋人が見つかるかもしれない。何がいいことなのか悪いことなのか、それは自分にはわからないのです。ほとけさまだけが、わかっておられるのです。
また、不幸なことにお子さんが亡くなったとします。それは、気の毒なことです。でも、きっとほとけさまが、それがいいことだと思っておられるのです。何でいいのかとと言われたって、わからないですね。
でも、わからないことが、わからいことだとしっかりわかったとき、本当の救いがあるのです。
――「不思議」――
ということです。思議することができない。人間の智慧でもっては思議できないのです。神仏のこころは、わたしたちには思いはからうことはできません。
病気とか失敗とか挫折とか、自分ではマイナスの価値だと思っていることが、神仏の目から見れば、違っているかもしれないのです。それが「不思議」ということです。
以上、ひろさちや氏「わたしの南無妙法蓮華経」より。
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