昨日の日記ではトラインの翻訳書である吉田利子「人生の扉をひらく万能の鍵」について述べましましたが、以下は、その本の最初に書かれている文章を紹介します。
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宇宙の中心にある偉大なる事実――。それは、すべての背後には「無限の生命と力のスピリット(谷口訳では神とある)が働いていてすべてを動かし、すべて通じて、すべての中に現われているということであるということである。
すべては、この自立した生命の原則から生じた。すべてが生じたばかりではなく、いまも生じ続けている。個々の生命が存在するなら、個々の生命のもととなる限りない生命の源が存在しているはずだ。愛という実質、愛という力が存在するなら、そのもとなる限りない愛の源が存在してるはずだし、智恵が存在するなら、そのもととなるあらゆる智恵の源が存在しているはずである。同じことは平和にもいえるし、パワーにもいえるし、それにわたしたちが物質と呼ぶべきものにもいえるのである。
そうだとすれば、すべての背後にある「無限の生命と力のスピリット」はすべての源なのである。この無限のパワーが不変の法則を通じて創造し、作用し、支配している。そして、その力がわたしたちを取り巻く宇宙全体に貫かれているのだ。日常生活のあらゆる行動も、その偉大なる法則と力が律している。道端に咲く花々は偉大な不変の法則にしたがって芽生え、育ち、咲き、枯れていく。天と地のあいだを舞う雪のひとひらひとひらも、偉大な不変の法則に従って形づくられ、舞い落ち、消えていく・・・・。
ある意味では、壮大な宇宙にあるものはその法則だけだともいえる。それが真理なら、その法則の背後に何らかの力があってさまざま法則を生み出しているはずだし、その力はさまざま法則よりもさらに偉大なもののはずだ。「すべての背後にあるものその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方は何でもかまわない。
神とは神ご自身のみによって宇宙全体を満たすこの「無限のスピリット」なのである。すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたちは神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神はわたしたちの生命であり、人生そのものなのだ。わたしたちは神から生命を授けられたのだし、いまも授けられ続けている。わたしたちは神の生命の一部なのだ。わたしたちと神は違うが、それはわたしたちが個々のスピリットであるのに対し、神は私たちすべてもわたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いにすぎない。
とある谷間に池があって、山の中腹の尽きることのない水源からこんこんんと水が流れ込んでいる。谷間の池は山の中腹の大きな水源から流れてくる水を受け取っている。小さな池の水は大きな水源の水と本質的には同じだ。ただし、違いはある。山の中腹の水源は水の量ということでいえば谷間の池よりはるかに豊かで、谷間の無数の池に水を送ってもなお涸れることがない。
人間の生命も同じである。わたしたちはそれぞれ違いがあっても、すべての背後には「無限の生命のスピリット」――すなわちすべての生命そのものがあって、そこからすべてが生じているのだから、個々の人間の生命は、わたしの生命もあなたの生命も「無限の源」から流れ出す聖なる流れにちがいない。それならば個々に人間に流れ込む生命は本質的に「無限の生命のスピリット」と同じものである。ただし、両者に違いはある。それは本質的な違いではなく、程度の違いなのだ。
そうだとすれば、人間が自分を開いて聖なる流れを受け入れる度合いに応じて、神に近づくことになるのではなかろうか。さらに、そのように神に近づくならば、それだけ神の力を受け取ることになる。神の力には限りがないとすれば、人間の限界は自分自身を知らないために自分で自分に課したものということになるのではないだろうか。
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