昨日から『追憶のなかの西谷啓治先生』という以前書いたエッセイを書きおこしをしているという話を書いた。
そのエッセイのなかには、西谷先生の思い出だけではなく、西谷先生の奥様であるふみ夫人のことも書いてある。
不思議なことであるが、わたしは西谷先生ご本人とお会いする前に、ふみ奥様とお会いしているのだ。
それは、わたしが大谷大学を受験する際、わたしが手が震えて文字が読みにくいということもあり、原野栄二先生から西谷先生を通じて大谷大学に、
「体の不自由な子が受験するので、しっかりとその子の答案の文字を読むようにしてもらいたい」
という話をしてもらった。
ところが大谷大学はわたしを�狎消�先生の推薦�瓩箸いΔ海箸如�合格ライン以下だったのにかかわらず、一番合格ラインの低い、短期大学部仏教科に潜り込まさせたというのである。
だからわたしのもとに大谷大学の合格発表の前に原野先生から
「大谷大学短期大学部仏教科に入学できることになった。大谷大学は文学部三回編入もあるということだから、まあ、入学することにしろ」
という話があった。
そんな経緯があって、わたしは原野先生とわたしの母親と三人で大谷大学に入学する春に初めて、西谷先生のご自宅にご挨拶に行くことになったのだ。
その時、何かの連絡の行き違いがあったのか、西谷先生はお留守でふみ奥様がわたしたちを出迎えてくれたというのである。
原野家と西谷家との関係は、原野先生と西谷先生の関係だけではなく、戦後の混乱期に西谷先生のお子さんたちのミルクを原野先生がお分けをしていたという関係もあったらしい。しかしそのことについて西谷先生は一度も原野先生に礼を言うことはなかったという。原野先生にとっても西谷先生に礼を言われていたら、あのことはできなかったといっておられた。
つまり原野先生と京都大学の先生方との関係は、単に学者と編集者の関係にとどまらず、深い人間関係で結ばれていたのである。
わたしは、西谷先生にすれば、そんな原野先生から預かった大切な学生だったのであろう。わたしは年に何度か西谷先生のご自宅にお邪魔して二時間西谷先生にお相手をしていただいた。今考えると、恐れ多いことで、一般の学生が、たとえ京都大学大学院で哲学や宗教学を専攻している学生であったとしても、決して先生はお会いくださらなかったのである。そんな西谷先生をわたしは年に数回二時間ぐらい取っていただいていたのである。しかもアポなしである。なんと失礼なことをしていたことなのか、今考えただけでも怖くなってくる。
しかし西谷先生もふみ奥様もお茶を出し、コーヒーを出し、お菓子にケーキを出してくださった。そしてふみ奥様は遠くからよく来てくださいましたといつも喜んでそう言ってくれた。その優しさが今でも忘れられない。
1984年8月3日、ふみ奥様が亡くなられた。その告別式で西谷先生はわざわざわたしに「そんなところに座っていて暑くはないですか」とお声をかけてくださった。奥様をなくされてどんな気落ちしているか、わからないのに、わざわざわたしにお声をかけてくださった。その優しさに改めて西谷先生から受けた御恩の深さを思うのである。
一時、大谷大学でわたしの母親は西谷先生の親戚だといううわさが流れた。普通、一般の学生が、しかも短期大学部仏教科の学生が西谷先生のお宅にお邪魔しているなどということは考えられないことであった。そのようなことをわたしはやってのけていたのである。だからそういううわさが流れたのだろう。
しかしわたしの母親と西谷先生とは何ら親戚関係にもなく、わたしの母親はよく、
「あんたのおかげで、中卒のわたしが偉い先生方にお会いする機会が増えて、どうしたらいいのかわからなくなる」
と、こぼしていたことがあった。
わたしは今、西谷先生の娘さんとは年賀状の交換を行っている。そうして西谷家との関係は今も続けさせてもらっている。
『追憶のなかの西谷啓治先生』というエッセイを書き起こしながら、ふっとふみ奥様のことを思い出していた。
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