以下、トラインの「人生の扉をひらく万能の鍵」より。
宇宙の中心にある偉大なるじじつ――それは、すべての背後には「無限の生命と力のスピリット」が働いていてすべてを動かしすべてを通じて、すべてのなかに現れているということである。すべては、この自立した生命の原則から生じた。すべてが生じたばかりではなく、いまも生じ続けている。
個々の生命が存在するなら、個々の生命のもととなる限りない生命の源が存在しているはずだ。愛という資質、愛という力が存在するなら、そのもとなる限りない愛の源が存在しているはずだし、智恵が存在するなら、そのもととなるあらゆる智恵の源が存在しているはずである。
同じことは平和についてもいえるし、パワーにもいえるし、それにわたしたちが物質と呼ぶものにもいえるのである。
そうだとすれば、すべての背後にある「無限の生命と力のスピリット」はすべての源なのでであり、そして、その力が私たちを取り巻く宇宙全体に貫かれているのだ。日常生活のあらゆる行動も、その偉大なる法則と力が律している。道端に咲く花々は偉大な不変の法則に従って芽生え、育ち、咲き、枯れていく。天と地のあいだを舞う雪のひとひらひとひらも、偉大なな不変の法則に従って形づくられ、舞い落ち、消えていく……。
ある意味では、壮大な宇宙にあるものはその法則だけだともいる。そのすべての背後にあるあるその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方はなんでもかまわない。
すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたちは神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神はわたしたちの生命であり、人生そのものなのだ。
私たちは神の生命の一部なのだ。わたしたちと神とは違うが、それはわたしたちが個々のスピリットであるのに対して、神はわたしたちすべてもわたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いに過ぎない。
とある谷間に池があって、山の中腹の尽きることのない水源からこんこんと水が流れ込んでいる。谷間の池は山の中腹の大きな資源から流れてくる水を受け取っている。小さな池の水は大きな水源の水と本質的には同じだ。ただし、違いがある。山の中腹の水源は水の量ということでいえば谷間の池よりはるかに豊かで、谷間の無数の池に水を送ってもなお涸れることがない。
人間の生命も同じである。わたしたちにはそれぞれ違いがあっても、すべての背後には「無限の生命と力のスピリット」――すなわちすべての生命そのものがあって、そこからすべてが生じているのだから、個々の人間の生命は、私の生命もあなたの生命もその「無限の源」から流れ出す聖なる流れに違いない。
それならば個々に人間に流れ込む生命は本質的に「無限の生命と力のスピリット」と同じものである。ただし、両者に違いはある。それは本質的な違いではなく、程度の違いなのおだ。
そうだとすれば、人間が自分を開いて聖なる流れを受け入れる度合いに応じて、神に近づくことになるのではないだろうか。さらに、そのようにして神に近づくならば、それだけ神の力を受け取ることになる。神の力に限りがないとすれば、人間の限界は自分自身を知らないために自分で自分に課したものということになるのではないだろうか。
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