【プログラム】
ヴェルディ
1 歌劇「ナブッコ」序曲
プッチーニ
2 歌劇”ジャンニ・スキッキ”より「私のお父さん」
3 歌劇”修道女アンジェリカ”より「母もなし」
4 交響的前奏曲
5 歌劇”トスカ”より「歌に生き,恋に生き」
6 歌劇”蝶々夫人”より「ある晴れた日に」
ヴェルディ
7 歌劇「運命の力」序曲
***** 休 憩 *****
レスピーギ
8 交響詩「ローマの松」
(アンコール)
ロッシーニ:歌劇”ウイリアム・テル”序曲から「スイス軍の行進」
木下 美穂子(ソプラノ)
札幌交響楽団(管弦楽)
アンドレア・バッティストーニ(指揮)
2017年9月15日(金),19:00開演,札幌コンサートホール
来年の10月7日にオープンを控えた札幌文化芸術劇場のプレイベントを聴いて来た。この演奏会を振るのは,来年の柿落とし「アイーダ」の公演でも指揮をするアンドレア・バッティストーニ。ソプラノの木下美穂子も来年の「アイーダ」でタイトル・ロールを歌う。そして,ピットに入るのは札幌交響楽団。このプロダクションは,神奈川県民ホール,兵庫県立芸術文化センター,iichiko総合文化センター(大分市)そして東京二期会との共同制作である。ちなみに札幌文化芸術劇場は,ニトリ文化ホール(旧札幌厚生年金会館)の後継施設として建設中の4面舞台を備えた約2,300席の多目的ホールで,バレエやオペラの本格的な上演に対応できる。
このプレイベントを聴いて,気づいたことが3点ある。オーケストラの演奏は指揮者によって大きく変わる。しかし,オーケストラの個性には簡単に変わらない要素もある。そして,今後,札響が脱皮を目指すなら,そのポイントの少なくとも1つは見えたように思う。今後の方向性が明瞭になっただけでも,バッティストーニと共演した意味はあっただろう。
この日,ホールへ足を運ぶ前から考えていたのは,バッティストーニが振ると札響の音は変わるのだろうか。変わるとしても,オーチャードホールで聴いた東フィルにどれくらい近づくのか。そもそもバッティストーニの要求に応えられる柔軟性を持ち合わせているのかなど。
まずは,プログラム前半のヴェルディの序曲とプッチーニのアリアについて。
東フィルの音を理想と考えているわけではないが,一応それを比較のための物差しとするなら,普段の札響の響きと比べて,3分の1から半分くらいは東フィルのサウンドに近づいていたように思う。オーチャードホールで聴いた東フィルがバッティストーニの要求を100%満たしていると仮定するなら,札響は30%から50%くらいは指揮者の要求に応えていたことになりそうだ。30%から50%と幅があるのは,曲によって到達の度合いが違うし,同じ楽曲でも達成度にムラがあるからだ。平均すると30%台というところだろうか。リハーサル2日,本番1日だという日程だとすれば,妥当なところだろう。健闘したという見方もできる。
バッティストーニは本番中かなり強引にオーケストラを引っ張っていこうと試みていたが,オケの方は必ずしも嬉々として指揮について行くようには見えなかった。空回り気味の場面もなくはなかったが,その時は指揮者が素早くオケに譲歩し,もう一度自分のペースに引き込む努力は怠らない。そうした試行錯誤の結果,両者の息がピッタリと会う瞬間があり,ホール全体がある種のオーラに包み込まれる。札響も地方オーケストラではあるが,プロのオケだけあって指揮者の意図に反応する技量を備えてはいるものの,自分たちの殻を破ることに心理的な抵抗を示すような様子もうかがえた。あえていうなら,自分たちは折り目正しいシンフォニー・オーケストラだというアイデンティティーが,オペラの扇情的な棒について行くことを潔しとしない,といったところか。別の言い方をすると,大学で声楽の専門教育を受けた歌い手が,小節をきかせて演歌を歌うよう求められたときに見せるであろう,戸惑いや気恥ずかしさに似ているかもしれない。
指揮者とオーケストラは,綱引きというか鍔迫り合いを演じていたわけで,オケは自分たちのペースを守り抜いたという面もある。札響の響きは,オーチャードホールで聴いた東フィルのように硬く艶やかというより,いつものとおり柔らかく渋味がかったサウンド。そして演奏スタイルも,オペラを伴奏するときの草書体ではなく基本的に楷書体であり,指揮者の要求に最大限応じたときでも行書体だろうか。アゴーギクも概して控えめで,優等生的なお行儀のいい演奏である。どう考えてもオペラティックな演奏とは少し異なっていて,イタリア・オペラの扇情的な流儀からは隔たりがある。バッティストーニのカリスマを持ってしても,ごく短い日数で札響の個性を大きく変えることはできなかったようだ。
いまの札響に欠けている最大のものは,聴衆を煽り立てる熱狂的な演奏なのではないかと,このコンサートを聴いて気がついた。何も折り目正しい紳士的な演奏スタイルを捨て去れと言っているわけではない。札響が一皮剥けて大きく羽ばたくためには,現在の殻を破って表現の幅を広げないといけないと言いたいだけだ。そして,オペラに挑戦することがその脱皮を促すうえで有効だろうと直感的に理解したということだ。人間の感情の動きを極限にまで拡大し,そのぶつかり合いから生じるドラマに挑戦することで,もう一段上の表現の高みに到達できるはずだ。現状のままでは,演奏技術の面での精緻さは増しても,音楽の表現面では干涸らびてしまいかねない。端正な美しさは音楽の一面でしかなく,凝り固まった感情を吹き飛ばす馬力も音楽の役割だろう。何より,このままでは聴衆の支持が長期低落傾向から脱する見込みが立たないだろう。このコンサートを聴いて熱狂する聴衆の様子から察すると,血湧き肉躍る演奏を待ち望む多くの潜在的なファンが札響の変容を待ち構えている。若年層の音楽好きにも,エキサイティングな演奏は強烈にアピールするだろう。
このプレイベントで,プッチーニのオペラ・アリア4曲を歌った木下美穂子はソプラノだが,声質はやや暗く重たいメゾに近いような印象だ。音程は安定していて,しっとりした声に好感を持つ。もう少し声量があれば申し分ないのだが。そして,大きな会場でアイーダを歌うとなれば,声に芯が欲しいところだ。新しい文化芸術劇場の隅々まで声を十分に響かせることができるのだろうか。杮落としでは,全力投球するので余計な心配かもしれないが。
以上は前半を聴いて考えたことである。レスピーギの「ローマの松」は苦手な作品なので,詳細なコメントは控える。基本的には前半と同じ傾向の演奏だった。予想していたよりもこじんまりとした「ローマの松」だったように感じた。
海外のオペラハウスの引越し公演が定着するとともに,新国立劇場がオープンして20年が経ち,オペラの上演に適した劇場が全国各地に建つなど,ここ20年ほどの間にオペラを取り巻く環境は大きく変化した。特に首都圏以外でのオペラに対する注目度は格段に上がっているように思う。これを機に,札響がオペラを手がけるようになるのは,表現の幅を一段と広げ,さらなる飛躍を遂げるための好機だろう。テンポを大きく揺らす,聴衆を煽るような,あざといまでの表現方法を身につけることは,技術面での向上につながるだろうし,興行面での成功にも貢献するに違いない。
音楽の世界もご多分に洩れず魑魅魍魎が跳梁跋扈していて,札響が直面する課題も一筋縄でいかないだろうことは容易に想像がつく。だが,潜在的な聴衆も含めて多くの音楽好きが何を望んでいるのか,関係者に一日も早く気付いて欲しい。
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