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2016年10月21日08:00

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菜根譚 自然をいくつしむ心

菜根譚前集170

<本文>
鼠(ねずみ)の為に常に飯(めし)を留め、蛾(が)を憐(あわ)れみて燈(ともしび)を点(つ)けず」。
古人の此等(これら)の念頭(ねんとう)は、これ吾人(ごじん)の一点の生々(せいせい)の機(き)なり。此れ無ければ、便(すなわ)ち所謂(いわゆる)土木(どぼく)の形骸(けいがい)のみ。

<現代語訳>
むかしの詩句に、「鼠が餓死してはかわいそうだと思って、いつも飯を残してやり、蛾が飛び込んで焼死しては憐れだと思って、燈火をつけないでおく」とある。
むかしの人のこのような慈悲心は、われわれ人間が生きていく上での根本的なはたらきである。これがなければ、人間は土や木と同じ形骸にすぎない。

<解説>
食事の前に、われわれは「いただきます」という。人間が生きていくためには植物や動物、つまり、人間と同じ生命を持っている生物を食べなければならない。人間が生きるためには、同じ生命を持っている生物を食べる。そうした悲しい本質に対する反省が「いただきます」にこめられているのではなかろうか。

「鼠の為に常に飯を留め、蛾を憐れみて燈を点けず」は、宋の蘇東坡の詩であるが、まさに、人間の生物としての悲しい本質を自覚するからこそ、純真に発した慈悲心だといえよう。

良寛は居室の床下に生えた筍の成長のために畳をあげてやり、一茶は雀の子の傷つくことを恐れて、「雀の子、そこのけそのけ、お馬が通る」と詠んでいる。

こうした純粋の慈悲心、これがなければ血の通わぬ形骸にすぎない。この自然と生物に対する慈悲心もなく、ただ酔いしれたように「平和、平和」と呼ぶ前に、再思三考すべきだろう。


以上、野口定男「菜根譚」を参考にしました。


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