ゲリー・ズーカフ「魂との対話」より。
畏敬の念をもつこと(生命を尊ぶ姿勢)
私たちの種は傲慢になってしまった。私たちはいま、地球を好き勝手に使うことのできる所有者であるかのように考え、その考えにしたがって行動している。地球に住むほかの生命体のニーズ、あるいは地球じたいのニーズは無視するいっぽうで、自分たちのニーズは意欲的に満たすことに努め、その過程で、地球の陸地を、海を、大気を汚染してきた。
畏敬の念をもつ人間にとって、自分の友人、仕事仲間、町、国家、あるいは惑星を不当に利用することなど、絶対に行なえないことである。畏敬の念をもつ人間、あるいは種にとっては、こういった行為によってつくられる類のカルマを蓄積するということも、絶対にありえないことである。
畏敬の念をもつということは、あらゆる形あるもの、それは、人間、植物、鳥、動物、およびその他のいかなる形あるものとかかわるときにも、その内側、その本質と接触することである。
そのためにはまず「目に見えているものの下にこそ、真のパワー、本質が存在する」ということを知っていなくてはならない。その本質こそが畏敬の念を向けられるべきものである。
成長のプロセスもまた、畏敬されてしかるべきものである。生命の開花、その成熟のプロセス、そして真のパワーで満ちるにいたるプロセスは、明らかに、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。
この地球上のさまざまな生命の循環もまた、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。それらは果てしない年月にわたって存在しつづけてきた。それらは、ガイアの魂、すなわち、ひとつの生命体としての地球の意識の、自然な息吹を投影するものである。
畏敬の念は、生命を尊ぶ姿勢である。ある人間が畏敬の念をもつかどうかは、基本的には、その人が生命を神聖なものだと考えているかどうかで決まってくる。
畏敬の念はまた、単純に、すべての生命が存在するだけで価値がある、ということを真実として受け入れている心の状態である。
動物の世界では、エネルギーの自然な再配分が行われている。エネルギーを必要以上に用いたり、必要のないエネルギーをため込んだりしているのは、私たちの王国、つまり人間の世界のみである。そのために、エネルギー循環のバランスがいちじるしく乱されている。
もしも私たちの一人ひとりが、毎日、その日に必要なものだけを消費してきたならば、その循環は完璧だったはずである。動物たちは、冬を過ごすためにどうしても必要なとき以外は、私たちのようにため込まない。
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