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2016年08月12日10:03

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「魂との対話」(魂はけっして裁かない)



ゲーリー・ズーカフ「魂との対話」は、全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラーです。私たちは、なぜ生きているのか? 魂とは、いったい何なのか? とあらためて深く考えさせてくれます。以下、適宜抜粋しながらまとめました。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/daiyogen49.html#


魂はけっして裁かない

畏敬の念は真のパワーの獲得とともに、自然に身についてくるものである。なぜならば、魂はあらゆる生命を畏れ敬っているからだ。

畏敬の念をもとうと決意することは、実質的に、霊的な人間、つまりハイレベルの精神性をもつ人間になろうと決意することである。

畏敬の念とともに生きるということは、「それには生命が宿っている。あれもそうだ。危害を加えたりはしないようにしよう」、あるいは「あの人たちは同じ人間ではないか。傷つけたり、殺したりしては絶対にいけない」と意欲的に言い、その言葉に忠実でありつづけることである。

畏敬の念は、多感型パーソナリティが進化を果たす雰囲気であり、環境である。それは、存在することの豊かさと喜びを伝える感覚である。それは、思いやりとやさしさの源である。

畏敬の念が存在しない世界は、冷たく不毛な場所であり、そこから宇生まれるものは争いと暴力のみである。

畏敬の念は自動的に忍耐を誘発する。忍耐の欠如は、自分のニーズばかりを満たそうとする欲望である。

畏敬の念をもつ人間はどのような形をした、どのような活動をする生命をも賛美する。
畏敬の念は、「裁くことのない正義」を推奨する。魂は決して裁かない。

畏敬の念をもつ人間は、自分はほかの誰かより、あるいはほかの何かよりすぐれている、などとは、けっして考えない。あらゆる形の生命のなかに神性を見、それを畏れ敬っているからだ。

畏敬の念をもたないとき、私たちの行いは野蛮であり破壊的である。畏敬の念をもつことで、私たちの行いは思いやりとやさしさに満ちてくる。私たちは、遅かれ早かれ、生命のすべてを畏れ敬うことになっている。私たちに選択できるのは、それを行いはじめる時期と、そこにいたる学習の過程で手にすることになる体験の質のみである。




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