「魂との対話魂との対話」(あらゆる魂が、いずれは光に包まれる)
以下、ゲーリー・ズーカフ「魂との対話」より抜粋要約します。
あらゆる魂が、いずれは光に包まれる
悪をどのようなものとして理解するかが、私たちにとって、とても大切なことである。悪は、それとして正しく理解されなくてはならない。悪とは、光の不在によって引き起こされる力である。それは、人間が戦う準備をすべきもの、遠ざかろうとすべきもの、あるいは追放を試みるべきもの、などではないのである。悪というものを、光が存在しない状態として理解することで、私たちは自動的に光と呼ばれるものに目を向けることになる。
意識された光は、神の知性そのものである。神の知性の存在しないところでは、つねに闇がうごめいている。ただし闇のなかでの存在は、永続するものではない。
「悪とは光の不在である」ということを理解したら、次に私たちはどうしたらいいのだろう? 悪に対して、私たちはどんな反応をしめすべきなのだろう?
「不在」の治療は「存在」をもって行なうべきである。悪は光の不在であり、光の不在によっては癒されない。もしあなたが、悪あるいは悪に手を染めた人間を憎んだとしたら、そのときあなたは、光の存在ではなく、その不在に手を貸したことになる。悪を憎んだところで悪はけっして消滅することがない。それどころか、それによって悪は強化されるのである。
光の不在は、それを体験しているパーソナリティーに苦悩をもたらす。そこには痛みが存在する。そして、あなたが彼または彼女を憎んだとき、あなたはその苦悩をあなた自身に引き寄せる。悪を憎むことの影響は、憎まれた人間ではなく、憎んだ人間に及ぶのである。憎んだ人間は憎しみに満ちた人間となり、光から遠ざかる。
悪を光の不在として理解したからといって、消極的な生き方をすべきだ、あるいは邪悪な行為を見ても無視すべきだということには、けっしてならない。あなたは、たとえば虐待されている子どもを見たとき、あるいは苦しめられている人々を見たときに、その子を守るために、あるいはそれらの人々を助けるべく、可能なかぎりのことを行なってあげるべきである。
しかしながら、そのときにもし、あなたのハートのなかに被害者に対する思いやりだけでなく加害者、すなわち思いやりをもたない人たちに対する思いやりも存在していなかったとしたら、あなたも彼らと変わりない人間になってしまう。
悪を不在だとする認識は、パワーを外側のものだとする認識に真っ向から挑戦するものでもある。存在しないものが打ち負かされたりできるのだろうか? 悪人が逮捕されるkとはある。しかし悪そのものは逮捕できるだろうか?
思いやりに満ちたハートは、悪に対してどんな軍隊よりも効果的である。軍隊はほかの軍隊とはかかわれるが、悪とはかかわれない。思いやりに満ちたハートは悪と直接かかわれる。それは、光が存在しない場所に光をもち込める。
悪を光の不在として認識したときから、あなたはきわめて自然に、自分のあらゆる決断を、「これは自分を光に近づけるものなのだろうか? それとも光から遠ざけるものなのだろうか?」という視点から吟味するようになるだろう。
そのときからあなたは、悪いことを行なっている人たちにも、たとえ彼らの行為に異議は唱えたとしても、少なくとも心のなかでは思いやりをしめせるようになるだろう。そしてそれはとりもなおさず、自分をネガティブなカルマの創造から守ることにほかならない。これが、悪に対する妥当な反応である。
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