畏敬の念とは生命を尊ぶ姿勢
私たちの種は傲慢になってしまった。私たちはいま、地球を好き勝手に使うことのできる所有者であるかのように考え、その考えにしたがって行動している。地球に住むほかの生命体のニーズ、あるいは地球自体のニーズは無視するいっぽうで、自分たちのニーズは意欲的に満たすことに努め、その過程で、地球の陸地を、海を、大気を汚染してきた。
私たちは、「自分たちには意識があるが、宇宙にはそれがない」ものと思い込んでいる。また、「自分たちの存在は、この生涯で終わってしまう。よって、他人に対しても宇宙に対しても、自分たちは何の責任も負う必要がない」と考えている。
畏敬の念をもつ人間にとって、自分の友人、仕事仲間、町、国家、あるいは惑星を不当に利用すること、核兵器をつくり出すことなどは、絶対に行なえないことである。また、こういった行為によってつくられる類のカルマを蓄積するということも、絶対にありえないことである。
畏敬の念をもつということは、あらゆる形あるものと、深いレベルで接触することである。それは、人間、植物、鳥、動物、およびその他のいかなる形あるものとかかわるときにも、その内側、その本質と接触することである。
そのためにはまず、「目に見えているものは、単なる外層、あるいは殻であり、その下にこそ真のパワー、本質が存在する」ということを知っていなくてはならない。その本質こそが畏敬の念を向けられるべきものである。
成長のプロセスもまた、畏敬されてしかるべきものである。生命の開花、その成熟のプロセス、そして真のパワーで満ちるにいたるプロセスは、明らかに、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。
この地球上のさまざまな生命の循環もまた、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。それらは果てしない年月にわたって存在しつづけてきた。それらは、ガイアの魂、すなわち、ひとつの生命体としての地球の意識の、自然な息吹を投影するものである。
その意識は、さまざまな力の場を動かし、多様な生命の循環を導いてきた。もし私たちがそれらに畏敬の念を向けていたとしたら、この地球の生態環境ほどに大切なものとして何かを眺めたり、そのバランスを危険におとしいれてしまいそうな何かを行なったりすることなど、どうしてできただろう。
畏敬の念は、生命を尊ぶ姿勢である。生命にやさしくしたり、生命を愛したりすることは、真のパワーで満ちている。
その意識は、さまざまな力の場を動かし、多様な生命の循環を導いてきた。もし私たちがそれらに畏敬の念を向けていたとしたら、この地球の生態環境ほどに大切なものとして何かを眺めたり、そのバランスを危険におとしいれてしまいそうな何かを行なったりすることなど、どうしてできただろう。
ある人間が畏敬の念をもっているかどうかは、基本的には、その人が生命を神聖なものだと考えているかどうかで決まってくる。
畏敬の念はまた、単純に、すべての生命が存在するだけで価値がある、ということを真実として受け入れている心の状態である。
畏敬の念は、ある知覚の結果である。それは神聖な知覚であり、私たちがいつも用いている知覚とは異なっている。この知覚を働かせることが、畏敬の念を持つことである。それはあなたに、どこを通ってどこに向かおうとしているのかを、あなた自身の霊的進化の枠組みのなかで発見させてくれるだろう。
これが真の畏敬の念である。それはあなたに、あなたの進化と同時に発生しているあらゆる進化を見させてくれる。あらゆる生命の王国で発生しているそれらの進化を、あなたはいずれ、大きな喜びとともに、感慨深く眺めるだろう。
エネルギーを必要以上に用いたり、必要のないエネルギーをため込んだりしているのは、私たちの王国、つまり人間の世界のみである。そのために、エネルギー循環のバランスがいちじるしく乱されてしまっている。
もしも私たちの一人ひとりが、毎日、その日に必要なものだけを消費してきたならば、その循環は完璧だったはずである。動物たちは、冬を過ごすためにどうしても必要なとき以外は、私たちのようにため込まない。
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