古典評論や手紙の書き方などの作家の清川妙さんの「90歳の幸福論」より。
私は耳の聞こえない息子を持っていたんですが、そのことが自分の人生において、いろいろな決め手になりました。
息子の耳に障がいがあると知った時に思ったのは、この子が耳が聞こえていたら味わうであろう人生を、味わわせなくちゃいけないということ。
本来味わうべき幸福感とか充実感ですね。
だから一人立ちするまでは、うんと手を貸そうと思ったんです。
そして耳が聞こえない代わりに、目から知識を入れさせようと考えて、コップならコップ、机なら机と一つずつ紙に書いて、一所懸命言葉を覚えさせていきました。
* * * *
まだ山口にいる頃に千葉県市川市の聾(ろう)学校を見に行った時、子供たちが手を掛け合って汽車ぽっぽの真似事をしているんですね。
聞けば「ぽ」という字の発音を覚えるために、何時間もそんなことをしているのだというので、うわぁ、気が遠くなるような話だなと思いました。
肩を落としている私に、担任の先生は
「聾教育というのは底なしの釣瓶(つるべ)で水を汲むような非常に根気の要る仕事です」とおっしゃった。
でも私はその時に
「底なしの釣瓶でも、水を汲む時には雫(しずく)がポタッ、とついてくる。
その雫を溜めればいいじゃないか」と思った。
ね、賢いでしょ(笑)。
自分で言うのもおかしいけれど、私、偉いと思うんです、いまから思っても。
この考え方の根はいまにして思えば『徒然草』の一節ですね。
「刹那(せつな)覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、たちまちに至る」。
つまり瞬間、瞬間を積み重ねて、人生は終わりを迎えると。
その、瞬間というのと雫と、何か発想が似ていません?
さっきあなたとお会いしたのは、もう遥か昔になりましたね。
仏教の教えに、指ひと弾きの間に六十五の刹那があるそうですが、その目にも止まらぬ瞬間を積み重ねているわけでしょう。
それが人の一生になるのだから、やっぱり意志を持っているのと持っていないのとでは
大きく違うんです。
(以上)
ヨガの珠数先生が講話タイムで、
「今」+「今」+「今」+・・・・・「今」=人生
と黒板に書かれました。
「今」「ここ」にすべてがあるのですね。
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