木村耕一「思いやりのこころ」より。
「叱られても、少しもふくれた顔をしない、反発しない」
これが秀吉の偉いところだった。
司馬遼太郎の「国盗り物語」の場面は、非常に印象的だ。
豊臣秀吉と明智光秀が、ともに織田信長の家臣として、近江の琵琶湖周辺を守っていたころの話である。
信長は、光秀に坂本に城を築くように命じた。
ある日、建設工事の指揮をしていた光秀は、この近くの唐崎という土地は、「古今和歌集」や「新古今和歌集」に出てくる歌の名所であることに気づいた。
光秀は、唐崎に新しい松を植えて名所を復活させたいと思った。
どこかに、ふさわしい松はないかと探していたところ、ちょうど琵琶湖の北方に、枝ぶりのいい松の大木を発見したのである。
しかし、そこは敵の領地であった。光秀は、秀吉の部隊にも応援を頼んで、松を掘り起こし運搬する作戦に出た。
ところが、首尾よく松を船に積み込んだと思った時、
「グワーン」という銃声が響いた。小谷城の浅井軍に見つかったのだ。
秀吉の部隊も応戦し、日暮前にはようやく撃退することができたが、数人の死傷者を出してしまったのである。
前線の最も有能な二人の司令官が、信長の許しも得ずに、かつてな行動をとって損害を出したのだ。岐阜にいた信長は、「バカめっ」と叫び、厳しい叱責の使者を、光秀と秀吉の元へ送った。
この時の二人の態度には、その後の人生を象徴するように、非常に大きな開きがあった。
・・・・・ ・・・・・
使者がやがて岐阜に帰ってきた。藤吉郎の元に行った使者は、
「木下殿はたいそうな恐縮ぶりで、これは腹を切らねばならぬと飛び上がり、真っ赤な顔でこの岐阜に向かってさんざん叩頭なされました」
と報告したから、信長はわっつと大口をあけて笑い、まるで猿めの動作が見えるようだ――といった。その使者とともに藤吉郎からも使者が同行しており、近江でとれた山菜、魚介などを信長に進上した。
が、光秀に差し向けた使者は、ひどく理屈っぽいことを報告した。
「明智殿の言葉でござりまする」
として唐崎の松がいかに古歌に名高きものであるかを説き、それを復活して天下に評判を広めしめることこそ殿のご威光、ご仁慈を世に知らしめる良策であると存じまする、というものであった。
この口上に信長は激怒し、
「わしにものを教える気か」
とどなった。(中略)その奇行の釈明がこうも理屈っぽく、とりようによってはこうも憎々しげでは、光秀を愛してやれる余地がない。
――可愛げがない。
というのが、信長の本音であったろう。
(中略)
むろん、光秀からはその心根の可愛らしさを表すような進物は、蜆(しじみ)一折もとどかない。
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秀吉は「要領がいい」という見方もあるかもしれないが、「叱られたら率直に謝る」という姿勢は学ぶべきである。理由はどうあれ、相手に迷惑をかけた場合は、言葉で、態度で、精一杯、お詫びの心を表す努力をしなければならない。ちゃんと心が伝われば、かえって信頼される基になっていく。
光秀も、反抗する気持ちがあったわけではないだろう。事情を報告してお詫びしたつもりだったが、かえって主君を怒らせてしまった。問題は、ここである。「自分は正しい」という心が大前提となっているから、お詫びを言っても、相手には「言い訳」としか伝わなかったのだ。
自分が悪いとは思わないから、分かってくれない相手を恨むようになり、身の破滅を招くことにもなりかねない。
やがて本能寺で信長を殺害する光秀と、信長の跡を受けて天下を取る秀吉。この大きな違いは、普段からの、ちょっとした心の持ち方の相違から生まれたともいえるだろう。
自分が同じ立場なら、どう行動するだろうかと思って歴史を読んでいくと、前向きに生きるための教訓になることが多い。
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