第1章
★人生は、自分が何者であるかを思い出すため、創りなおすためにある。
★人生は学校ではない。学校は知りたいことを知るために行くところだ。
人生はすでに知っていることを体験する機会だ。
●わたし(神)はすべての者に、つねに語りかけている。問題は、誰に語りかけるかではなく、誰が聞こうとするか、ではないか?
●何かについて、自分にとっての真実を知りたいと思った時には、自分がどう感じるかを探ってみればいい。・・・・最も深い感情の中に、最も高い真実が隠されている。
●神からのメッセージと、そうでないものとを見分けることは、なかなかむずかしい。わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それは愛である。喜び、真実、愛。
●すべてのひとは特別であり、すべての時は黄金である。他よりも特別なひと、特別な時というものはない。
●あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと(欲すること)を現実に体験することになる。
●正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。
●現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ・・・。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい。
●――だが、どうして、そこにないとわかっていることに心から感謝できるのですか?
信念だ。けし粒ほどの信念があれば、山を動かすことができる。
●どんな祈りでもかなえられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから。
●何かを求めたり、願ったりしたら、望んでいることがかなう可能性は非常に少ない。なぜなら「欲求を陰で支えている思考」というのは、「望みはかなっていない」という思いだから。そちらのほうが現実になるのだ。
●支えとなる思考のなかで、「望みがかなっていない」という思いよりももっと力強いのは、「神は必ず求めるものを与えてくれる」という信念、それだけだ。
●神があらゆる求めに応じてくれると信じるのはむずかしいが、そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みがかなっていることをすなおに感謝するようになる。
●神があなたの人生のすべての創造者であり、決定者であると信じているなら、それは誤解だ。神は観察者であって、創造者ではない。神はあなたの人生を助けるが、あなたが期待しているような助け方はしない。
●神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなた創造したものだ。
●神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなたが自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる力を与えた。
●あなたが何をしようが、わたしには関心がない。そう聞くとつらいかもしれない。
だが、遊びに出た子供たちが何をするかに、あなたは興味があるだろうか。子供たちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、ままごと遊びをするかと気にするだろうか。気にしないはずだ
●もちろん、危険な遊びは教えておくだろう。だが、子供たちが危ない遊びをするのを止めることはできない。いつも、いつまでも、死ぬまで危険からまもってやることはできない。
●賢い親ならそれを承知している。だが、結果についての親の心配は決して消えない。この二分法――プロセスについてはあまり気にせず、結果について深く懸念するということ――これが、神の二分法に近い。
●もっとも、ある意味では、神は結果についても気にしてはいない。究極の結果については懸念しない。究極の結果は確実に決まっているからだ。
●究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信がもてないから、創造者を疑う。神を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
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