500年に一人ぐらいしか出ないといわれている江戸時代の偉大な禅僧・白隠禅師が、
次の「施行の歌」を作っています。
今生富貴する人は、 前世に蒔きおく種がある。
今生施しせぬ人は、 未来は極めて貧なるぞ。
利口で富貴がなるならば、 鈍なる人はみな貧か。
この世は前世の種次第、 未来はこの世の種次第。
富貴に大小あることは、 蒔く種大小あるゆえぞ。
いわんや施し多ければ、 果報も多しと計り知れ。 (以下略)
良い事をしたら、良い結果がもたらされる。
悪い事をしたら、悪い結果がもたらされる。
何事も自分の行い次第だというのです。
唐の宗密禅師もまったく同じことを述べています。
いわゆる前生の敬慢を因となして、今貴賎の果を感ず。
ないし、仁は寿、殺は夭、施は富、慳(けん)は貪・・・。
これをもって、この身は、或いは悪なくして自ら禍し、善なくして自ら福し、
不仁にして命長く、不殺にして若死にする者なり。
皆これ前生の業すでに定まるが故に、
今生の所作によらずして、自然に然るが如し。(以下略)」
白隠禅師も宗密禅師も、因果応報は一分一厘も狂いなく働くというのです。
仏教も、今日あるのは過去の自分の所業によるところ、すなわち、自業自得であるし、今後をよくするのも自業自得であると考えるのです。
すなわち、「過去の自分が現在の自分をつくり、現在の自分が将来の自分をつくる」ということです。
福沢諭吉は次のように言っている。
「人生は芝居のごとし。上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、棄身になって何事も一応なすべし」
したがって、問題は、今生の境遇がどうであれ、ただひたすら来世に向けての種を蒔き続けられるかどうかです。
以上、川上正光訳「言志四録」(1)による。
二宮尊徳も「種を蒔かずに、果実を取れる道理はない、種がなくして、生まれる動物もいない。天理がそうであるから、人の幸福は、どうして種を蒔かずに得られようか」といいます。
仕事も人生もすべては、今現在の種蒔からはじまるということを肝に銘じて、日々生活を送る必要があると思います。
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