豊臣秀吉と明智光秀はともに、信長の武将の中で出世頭でした。
明智光秀の知識と知略は信長の天下取りに欠かすことはできず、信長のもと早々と丹波一国を与えられ、近畿地方の織田大名の指揮権まで持つという重要なポストを与えられました。
1.長所を見るか、短所を見るか
以下、村岡満義氏は「私と論語300選」で次のように書いています。
また、人の長所を見ることに努めて、進言することです。人の短所だけを見て諌めたり、忠告していては嫌われるのであります。
秀吉と光秀とはよい例かと思います。両方とも猛将織田信長の家臣として忠勤に秀で、50数万石の大名に封ぜられ、甲乙の差がつけられないほど偉い家臣でした。
しかし秀吉は磊落(らいらく)で明るいたちで、信長の長所だけが目につき、その長所に共鳴し、「じつにりっぱだ、じつにえらい」としてその線で進言する。
光秀は文武に長じて、また一面非常に律義で正義感が強く、織田信長の長所もわかるが、他方では「殿はいよいよ大業をなしとげ、天下を治められるのには勇猛だけではなく、徳を修められねば」という考えをもち、また、口に出したようであります。
そしてついに光秀は亡び秀吉は天下を取る運命になってしまいました。
・・・・以上。
才人、才におぼれるという譬えのとおり、光秀は、才によって最高の出世を成し遂げましたが、才によって自らを滅ぼしてしまいました。
才があるという慢心、過信が謙虚さを失い、「自分は正しい」という心が常に前提となるから、主君に対しても説教口調となり、信長の怒りを買うことになったのです。
「自分は正しい」から、分かってくれない相手を怨む・・・・、これが本能寺の変となり、結局、破滅することになりました。
2.幸せに耐える力
一方の秀吉も天下を取るまでは私心や自分の才を誇ることもなく、天下のため全身全霊でひたすら頑張りました。
そして天下統一を成し遂げ、大阪城を築き関白・太政大臣に任ぜられ、人臣としての栄誉の極みを得ました。
しかし、秀吉もその成功を乗り越えることができなかったのです。
自らの力への過信と傲慢さが、無謀な朝鮮出兵となって失敗、また、淀君、秀頼可愛さという老人エゴで、あれほどの秀吉も晩年を汚すことになりました。
鈴木秀子さんは「私たちは苦しみに耐える力だけではなく、幸せに耐える力も必要です」と言います。
たしかに、私たちは逆境にあるときとか、 病気、事故、トラブル・・・等々 この世的な不幸があっても、 それに耐え、立派に乗り越える方は少なくありません。
しかし、出世して名誉、権力、財力を極めたとき、 慢心や驕りになって転落するケースはよく聞きます。
※鈴木秀子・・・聖心女子大学教授(日本近代文学)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長
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