」
【現代語訳】
世の中の廻り合せには、小さな盛や衰もあれば、大きな盛や衰もある。その間にまた、福と禍が互に混じり合っていることは丁度、海の水に小さな波があったり大きな波があるのに似ていて、天地間のことは大抵この運命を免れることが出来ないものである。これを知るのが活きた「易」であると考える。
【書き下し文】
気運に小盛衰有り。大盛衰有り。其の間また迭(たが)いに倚伏(きふく)を相成すこと、猶お海水に小潮有り大潮有るがごとく、天地間大抵、数(すう)を逃るる能わず。即ち活易なり。 (言志後録180条)
以下、田口佳史「言志四録・佐藤一斉の自分に火をつける言葉」より。
もしいま、あなたが「ああ、今日もまた昨日と同じだった。近ごろ、判で押したような日が続いているなぁ」と感じているとしたら、「まずい!」と思った方がいい。厳しく言えば、もはや“死に体”寸前です。
いま述べた『言志後録180条』にありますね。要するに「禍福はあざなえる縄のごとし」、「人間万事塞翁が馬」で、いいこと悪いことが繰り返されるのが人生というもの。
「海が小さな波、大きな波を起こすことによって、水が滞留せずにきれいな水でいられるように、人生も大小さまざまな幸不幸があってこそ活力あふれるものになるんだ」と、
一斉は言っています。
世の中もそう。時々刻々変化しています。それなのに、自分だけが“十年一日状態”でいることなど、本来は不可能なのです。
誰しも、不幸・不運に見舞われたくはありません。苦しいことや思いどおりにいかないことがあれば、「イヤだなぁ」と落ち込みます。
でも、ちょっと考えてみてください。望みもしないのに、不幸・不運がやって来たから
イヤなのではありませんか?
だったら、望めばいいんです。「やったぜ、望み通り、不幸・不運に見舞われたよ」と思えば、イヤなことではなくなります。何事につけ、「こんな目に遭わされた」と被害者意識を持ってとらえるから、よくない。自分がそうしたんだ、と主体的に考えると、状況がガラリと変ります。
たとえば、会社をクビになったとします。「クビにされた」と思うと、暗い気持ちになります。そうではなく「クビになってやった」と考える。また、誰かにだまされたら、「だまされてやったんだ」と考える。
そうすると、不思議と「さて、どうするか」と気持ちが前向きになります。次に打つ手を思考する心の余裕が生まれるのです。
あるいは、「不幸・不運に見舞われるのも、生きている証拠」というふうにとらえてもいい。
死んだら、幸不幸を感じることもできないのですから、どんな状況にあろうと、「生きていること自体が幸せじゃないか」ということに気づきます。
逆に、願ってもない幸運を手にしたら、素直に喜ぶ。でも同時に、「こんなに幸せでいいのか」と疑問を持つことも大切です。そこから、自分自身に試練を与えるような挑戦に対する意欲が出てくるからです。
どのみち、人間はいつまでも幸福に安住するなど不可能なこと。「上り詰めれば、後は下がるしかない」のが人生です。
だったら、自分から苦労を作りだしたほうがいい。何が起きても、被害者意識にさいなまされることはなくなります。
「いいことも悪いこともウェルカム!」という気持ちでいると、間違いなく人生は充実したものになります。
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