「レモンの味って、どんな味?」
とってもすっぱいんだ。
「梅干の味って、どんな味?」
とってもすっぱいよ。
「レモンと梅干って、同じ味なんだね」
違うよ。
言葉というものは、符丁に過ぎない。
符丁とは、「山」と問われて「川」と答えるアレや、「トラトラトラ」なんかのことだ。
あらかじめ決められた、言葉とそれが指し示す意味の組み合わせ。
木に成った赤いその実を、「りんご」と呼ぼう。
それは、木に成った赤いその実を見たことがある、食べたことがある者同士の符丁だ。
共通の体験を基にしていて、その共通体験がないと伝わらない。
宇宙人と交信して、りんごの味とみかんの味を混同せずに説明する自信はあるだろうか?
生まれつき盲目の人に、青色と赤色の違いを伝えることができるだろうか。
味覚や色彩、そういうアナログなものを、言葉というデジタルで伝達するのは難しい。
おもしろさ、おもしろみ。これらもまた同様である。
その映画を知らない人に、その映画のおもしろさを伝えようとすること。
それは、共通体験を持たない相手に、符丁で伝達を試みる行為。
レビュアーに限らず、言葉を繰り、真剣になにかを伝えようとするほど、言葉の限界を思い知る。
さらに、心あるレビュアーならば、もうひとつ重大な矛盾に直面する。
喩えば……
幼い頃、何の予備知識もなく、レモンを口にした。
あまりの酸っぱさに仰天した! でも、その強烈さの虜になった。以来、レモンは好物だ。
レモンを知らない人に、この良さを広めたい。そう考えたとする。
だから、あなたは云う。
「これはとっても酸っぱくて、その刺激がたまらないんだ!」
だが、あなたのその言葉によって、相手は知ってしまう。レモンは酸っぱいのだと。
予備知識を得た相手は、「何も知らずにレモンを口にしたときの衝撃」を得ることはない。
あなたが伝えた瞬間、その機会は永遠に失われる。
映画もアニメも、漫画だって同じこと。
初見の印象は一度きりだ。
回を重ねるほど深みを増す名作もあるにはあるが、それでも「初見」が一度きりなのは変わらない。
レビューに情報を盛るほど、「初見」を侵害するリスクが高まる。
だが、おもしろさ、おもしろみを伝えなければ、興味を持ってもらえない。
これを伝えるには、言葉を尽くすしかない。
人に興味を持ってもらうのは簡単ではない。
動いてもらう(観てもらう、読んでもらう)のは、もっと難しい。
そのためには言葉が必要だが、それが過ぎると、大事なものを台無しにしてしまう。
些細だが、ラストシーンが感動的と云えば、なんとなくハッピーエンドであると察せられる。
それたけで、途中経過の「ああ、どうなっちゃうんだ」というハラハラ感に影響がある。
大ドンデン返しがあると伝えれば、それだけで人は無意識に構えてしまう。
どうしたって何かしらの影響が出る。
でも、それを全て避けていては、興味を向けてもらえない。
みてほしい、興味を持ってほしい。そのために多くを知らせたい。
でも、無垢なまま作品に触れて、あの感銘を追体験してもらいたい。
レビュアーは、常にそんなジレンマを抱えている。
主観と客観。
言葉の限界。
そして、命題の二律背反。
それでも、今日もどこかでヲタクは語り、書き散らかすのだ。
すべては、作品への愛と敬意と、その味わいを共感したいと欲するがゆえに。
それが因となり、人と作品とをめぐり逢わせる果となるならば、これに勝る幸いはない。
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