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2016年03月22日08:44

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明徳を曇らせる「我」,「私」



昨日の日記で大学の「明徳」を説明しましたが、この「明徳」を曇らせているのが「我」・「私」であると、伊與田覺先生は「己を修め人を治める道」(致知出版)で述べています。
以下、転載します。


太陽は恒星ですから、24時間休みなく照り続けておるものです。そして明徳とは、外にある太陽に対して、我らの内にある小太陽のようなものです。明徳もまた輝いているのです。

しかし我々地球人は、太陽を見ることのできないときがあります。それは太陽の反対側にいるとき、いわゆる夜です。あるいは日中でも、雲がかかり、霧がかかり、スモッグがかかったら、太陽は見ることができません。

それと同じように、人間の明徳にも雲がかかることがある。明徳にかかる雲とはなんぞやといえば、いろいろあるでしょう。これについて孔子の教えを集約いたしますと、まず人間には我(が)というものがある。この我が強くなると明徳が見えなくなる。だから、我というのは雲であり、霧である。

「我」という漢字は「手」と「戈(ほこ)」を合わせた文字です。戈を手に「寄らば斬るぞ」と自分を守っている姿が「我」です。その姿が自分の殻に閉じこもって自分を守っているように見えるところから、「あいつは頑固だ」ということになる。

この我が雲になるわけです。我をなくせばなくしただけ、明徳が明らかになる、それは雲が薄くなればなるほど太陽がはっきりと見えてくるのと同じです。

それから「私」という雲がかかることがある。「私」という字の本字は「ム」です。物を自分のほうに持ってくるときは肘を曲げて引き寄せますね。人に与えず自分のほうに引き込む、それが「私」という字です。

自分のほうに引き込むもののうちで、我々が生活をする上で一番大切なものは何かというと、それは食べ物です。食べ物には主食と副食がありましょう。我々が主食とするのは五穀ですが、その五穀を表す文字がのぎ偏の「禾」です。そこに「ム」がついて「私」という字になる。

人間というものは、食べ物があるときは仏様のような顔をしていますが、食べ物がなくなってごらん。少しでも自分のものにしたい、自分のほうに引き込みたいという気持ちが起ってくる。

皆さんの中には、終戦前後の食料不足の時代を経験された方がいらっしゃいますでしょう。そのころはなんでも配給で決められていました。隣組というのがありまして、配給のときに隣組がよってわけたものを分配する。その分配するときにじっと見ていて、「さあ取りなさい」となったら、一個のたまねぎでも一個のじゃがいもでも、できるだけ大きなものを取ろうする。お米でも一粒でも多く自分のほうへ、という気持ちになる。

このような我とか私が明徳を曇らせることになるのです。



※伊與田覺先生は大正5年(1916年生まれ)、安岡正篤先生の直弟子。関西師友協会設立理事・事務局長に就任。また、成人教学研修所の設立に携わり、常務理事・所長に就任する。100歳を超え今も論語普及、論語精神の昂揚に尽力しておられる。



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