住友に長く勤めた人で田中良雄さという方がいました。この田中先生は東大在学時代に人を救うべく線路に飛び込まして片足首を失いました。のちに住友本社に入られて、住友電工の中興の師ともいわれた人です。
この方が「一隅を照らす」という詩を作っています。
私の受け持つ一隅が
どんな小さいみじめな
はかないものであっても
悪びれず
ひるまず
いつもほのかに
照らして行きたい
田中先生は終戦後の非常な困窮の中にあって、苦難の道を辿りながら住友本家を守っていく人でありますが、この精神が住友電工の精神となり、全社員がこれを徹底するという生き方をとっていました。
若い人は「一隅を照らすなんて、そんなちっぽけなこと」と思う人がおりますでしょう。
「もっと大きく照らしたい」と。
けれども、考えてみてください。地球は大きいけれど自ら照っておるものではありません。太陽の光を受けて光っている。一たび太陽が没すれば、地球もまた光を失うんです。
ところが、一隅を照らすということは、小なりといえども自ら光る人間になるということです。光る人間になるということは、その人がそこに居ることによって、体から発する光がおのずから周囲に及んでいくということです。
会社でも課長、部長、重役とかいろいろありましょうが、その会社という大きな光に照らされて自ら光っているんです。そのおかげで他所(よそ)へ行っても通じるわけです。だから、職を退いて一個の人間になると大した光もないというのが普通一般です。その職にあるときは外部的に影響を持っていますが、問題はそこを去ってからどれだけの影響力を持つかということです。
だから「照らす」という言葉は非常に深い意味があるんですね。会社がなくなっても、金がなくなっても、何を失っても、そこに光る人間が残っている。失えば失うほど光る人がある。そういうことであります。
・・・・・伊予田覚氏「己を修め人を治める道」(致知出版)より。
「そこにいるだけで、周りがホッとし明るくなるような人間になりたい」、
それが終生の願いです。
「桃李もの言わざれども下(した)自ずから蹊(みち)を成す」
桃や李(すもも)の木は、その花が美しいので、別に宣伝をしなくても人が自然に集まってくる。徳のある人は黙っていても、その徳を慕って集まってくるものだ、という意味です。
その人が傍にいれば何となくホッとさせる人、何か温かいオーラを持っている人、人と競争するより、人と喜びあえる人、バカに見えてもいい好々爺、こうした人になりたい、これが私のこれからの修業の目標です。
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