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2016年03月13日10:04

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老子第一章 道――見えないパワー


解説に先だって、老子について簡単に述べてみたいと思います。
「大器晩成」、「和光同塵」、「上善は水の如し」という言葉をご存じの方もあると思いますが、これは老子の言葉です。

「老子」は「論語」と並んで中国の伝統的な文化を象徴する古典です。
孔子も老子も「和」の大切さを説いていますが、孔子の説く和が「倫理的な和」であるとすれば、老子は「宇宙的な和」の中で人としての歩むべき道を説いているといえます。

新井満氏は「自由訳 老子」(朝日新聞社)の中で、次のように言われています。以下、要約転載します。

私は学生時代から孔子と老子を愛読し、社会人になってからも交互に読み続けてきた。ところが歳をとるにつれってなぜか孔子よりも老子を読む回数が増えた。

なぜか、あらゆる思想哲学の根幹をなす最重要課題“いのち”について、老子は最も深く考察した“いのちの哲学”であるからだ。
老子は大別すると四つの生き方をすすめている。
1.無欲に生きなさい
2.謙虚に生きなさい
3.不争の徳をもって生きなさい
4.貢献の徳をもって生きなさい
・・・・以下、略。

以下、老子第一章について書き下し文と4名の専門家の現代語訳です。

【書き下し文】
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼(きょう)を観る。この両者は同じきより出でて而も名を異にす。同じきを之を玄という。玄のまた玄は、衆妙の門なり。

【現代語訳1】
これが道(タオ)だと口で言ったからって 
これは本当の道(タオ)じゃないんだ。
これがタオだと名づけたって それは本物の道(タオ)じゃないんだ。
なぜってそれを道(タオ)だと言ったり 名づけたりするずっと以前から
名のない領域が はるかに広がっているんだ。

まずはじめは 名のない領域があった。 
名のない領域から 天と地が生まれ
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は 名の有るすべてのものの「母」と言える。

ところで 名の有るものには欲がくっつく。
欲がくっつけば、ものの表面しか見えない、
無欲になって、はじめて 真のリアリティが見えてくるのだよ。

名の有る領域と 名の無い領域は、同じ源から出ている、
名が有ると無いがあるだけなんだ。

名の有る領域の向こうに 名の無い領域が、広がっている。
明と暗の混ざりあった領域が、はるかに広がっている。
その向こうにも・・・・
入口には 衆妙の門が立っている。
森羅万象のくぐる門だ。
この神秘の門をくぐるとき、ひとは 本物のLife Forceにつながったのだよ。
・・・加島祥造訳「タオ 老子」(ちくま文庫)・・・

【現代語訳2】
これこそが人として大切にすべき「道」だとするような「道」は、永久不変の真実の「道」ではない。これこそが物事を示すことのできる「名」だとするような「名」は、永久不変の真実の「名」ではない。
また、「無」とは天地が始まることであり、「無」があるからこそ天地はようやく始めることができる。
そこから、常に無欲でいれば、万物の微妙な始まりの様子を見ることができると言われたのである。
逆に、常に欲があれば、万物の活動の結果を知るにとどまるとも言われた。
これら万物の始まりとその活動結果は同じ根源でありながら、違った言い方をされている。
これら同じものを「玄(神秘)」と言い、「玄」のさらなる奥深いところに「妙(本質)」が見えてくる入口がある。
・・・周春才「マンガでわかる老子入門」(日本能率協会)・・・

【現代語訳3】
これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。
天地が生成され始めるときには、まだ名は無く,万物があらわれてきて名が定立された。
そこで、いつでも欲がない立場に立てば道の微妙で奥深いありさまが見てとれ、いつでも欲がある立場に立てば万物が活動する結果のさまざまな現象が見えるだけ。
この二つのもの――微妙で奥深いありさまと、万物が活動しているありさまは、道という同じ根元から出てくるものであるが、(微妙で奥深いものというように)違った言い方をされる。同じ根元から出てくるので、ほの暗く奥深いものと言われるが、(そのように言うと道の活動も万物の活動も同じになるから、)ほの暗く奥深いものが措定されていき、そのような奥深いうえにも奥深いものから、あらゆる微妙なものが生まれてくる。
・・・蜂屋邦夫訳「老子」(岩波文庫)・・・

【現代語訳4】
道が道として役立ちをするような道、たとえば儒家などでいわれている人倫の道などは、真の道ではない。又、名の名として役立ちをするような名前、たとえば儒家の仁・義・礼・智などの如きものは、真の名ではない。
名のないもの、すなわち道が、天地のはじめであり、初めて名の出来たもの、即ち天地は、万物の生みの母である。
これは、道が天地を生み、天地が万物を生んだ、という言い方をして、老子のいわゆる道が、天地・万物の本源であり、本体であることを明らかにしたものである。この思想は、第25章の「道は天地に先だって生ず」の句によっても現わされている。なお、無名は道のことであるが、そのことも、第32章に「道は常に名無し」と出ている。
道と天地との関係は上述の如きものであるから、そこで我々は、真の無、すなわち道において、その幽玄不可思議の妙なる働きを見ることが出来、真の有、すなわち天地において、その差別を見ることが出来る。
常無は、道を指したものであるが、これは絶対のものであるから、我々はここにおいて、その幽玄の姿を見るのであり、初めての存在、すなわち天地は、すでに差別の出来た時であるから、そこにおいて差別相を見ることが出来るのである。
この両者、すなわち有と無とは、同じ根元から出て、その名を異にしたもので、更にその根本を遡れば、同一の玄、すなわち道から出たものである。(老子の考えでは、有と有に対する無、換言すれば相対的な有と無とは、共に道から出たものであり、その相対的な有と無との根源である道――絶対的な無を、ここでは仮に玄と名づけている。玄とは幽玄不可思議の意味である)。さてこの道こそは、実に森羅万象を生み出すっ最初の門である。
・・・諸橋轍次訳「老子の講義」(大終館)・・・



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