「あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それゆえ、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして」とクリシュナはアルジュナを元気づけますが、戦って人を殺せば罪になるのではないかという恐れは必ずつきまといます。
以下、上村勝彦「バガヴァッド・ギータの世界」を要約。
すべてを平等に見る
そもそもインドでは、何か行為を行えば、よい結果をもたらすこともあるが、悪い結果も残ると考えられていました。いわゆる「業」です。そこで、一般の世間を捨て、社会的な行為を捨てよ、と教える宗教もありました。初期仏教もそういう宗教の一つでした。しかし、大乗仏教に続いてヒンドゥー教のほうでも、『ギーター』の場合は、社会を捨ててはいけないと強調し、あくまで現実の社会生活をまっとうすべきであると主張しております。
ところが、社会生活をして、社会的義務を果たすと、どうしても罪悪を犯さなければならに場合も出てきます。例えば軍人なら、人を殺さなければなりません。それでは、社会的義務を果たして、しかも罪に陥らないためにはどうすればよいか、ということを『ギーター』は教えています。クリシュナによれば、この世のすべてを平等なものと見ることがその解決法であるといいます。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専念せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。 (2.・38)
苦楽、損得などのすべての相対的なことを離れ、すべてを平等に見れば、我々はもはや行為の結果に束縛されることはない。これこそ『ギーター』が繰り返し強調するところです。結論を先に言ってしまえば、平等の境地が実現すればヨーガが完成し、悟りの境地に至ることができる。すべてはそこで渾然一体となって、あらゆる相対的なものが消え失せてしまうと説いているのです。
行為の結果を動機としない
すべてを平等に見るべきであると教えてから、クリシュナは、行為を行うときに行為の結果を考えてはいけないと説きます。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。 (2・47)
行為が必然的に悪い結果をもたらすとはいえ、我々は隠遁者のように社会生活を放棄し、行為を捨ててはいけない。つまり無為に執着するのは正しくないと考えています。後の個所からも当時は社会生活を捨てる隠遁者が多かったと推測されますが、『ギーター』は、決して社会的な義務を捨ててはいけないと説いています。
そして、『ギーター』では、何か行為をする場合、その結果を動機とすべきではない、ひたすら行為に専念せよと教えています。この教えは日常的なレベルでも役に立ちます。自分が何か行為をやって、もし成功すればこういう果報があるとか、失敗したら大変に悪い結果になってしまうとか、そう思ったとたん、その考えに執着して失敗してしまう。現実生活においてよく経験されることです。しかし、結果を考えずになすべき行為そのものに専念することが、実は非常に難しいのです。それではどうすればよいか。クリシュナはそこで、ヨーガによりどころを求めるべきであると説きました。
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)に見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。 (2・48)
「ヨーガは平等の境地である」とは、あらゆるものが混然一体となった、平等となった状態をあらわす語であると解釈できます。
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