野々村議員みたいに? 「号令」「怒号」の「号」。「大きな声を出す」意味。
私が生涯でただ一度目撃した本当の「オトナの号泣」は、あの元議員だけ。
いつからか蔓延した、どんなに悲しかろうが、涙を流そうが、声を出して泣いていないものを「号泣」と書く「間違った日本語」にはもう慣れた。
最初は「号泣」という表現を読んで驚いた(どうも本当は号泣していなかったらしいが)り、タイトルや惹句にビックリして映像を観たらウソだったり、という経験をしたが、最近ではもう「またいつもの『間違った号泣』ね」と思って気にもとめないし勿論信用しない。
ただ、このケースは、本当に「号泣」した可能性があると思っている(未確認)。
だから、「言葉を間違う」ことはいけないのだと思う。「言葉は変化するものだ」と(それ自体は事実だが)いう理由「のみ」ですべてを肯定する意見があるし、私も時にそれが必要だったり有効だったり不可避だったりすることは認める。
でも、こういう無意味な「間違いの蔓延」は、結局この文章からは、彼が「号泣」したのかしなかったのかわからない(そしてそれによって事実を解釈する意味合いは大きく異なる)ことになってしまうという事態を生む、つまりコトバ本来の機能を損なう。それが問題なのだと思う。
“三ちゃん”三中元克、不合格・めちゃイケ卒業に号泣 スタッフに抱きつく コンビ名はdボタンに改名<不合格残念会開催>
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=137&from=diary&id=3873132
ログインしてコメントを確認・投稿する